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2019年8月19日 (月)

不幸な監視国家・日本、とならないために(書評: 幸福な監視国家・中国)

「こういう本は今の日本では売れないだろうなぁ・・」と「こういう本が出版される間はまだ大丈夫かなぁ・・・」というのが、本書を読み進める時に感じた最初の感想だった。


世の中に数多ある中国すげー本でもなければ、中国はもうすぐ破滅する的な本とも違う、中国で現在進行形の事象と、その現象を進めることが可能になる(ルールや主体ではない)原理を読み解こうという本書は決して多くのターゲットに刺さるものではないだろう。著者の一人である高口さんが担当されている部分では中国の最新事例を楽しむ読む人間はそれなりにいるだろうが、そういった人たちが梶谷先生の部分を噛み締めて読むというのは、あまり想像が出来ない。
難しいし、目の前のビジネスにはあまり関係がないからだ。

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しかしながら、中国の為政者・・・というか、法的な対応を検討したり、政策を立案したりする国家と党のエリート層は、必ずこういった思想的な議論を行なっているであろうと、僕は確信している。権力という意味においてエリートである彼らは、同時に知的なエリートであり、どのようにして中国という国家を舵取りすべきかということに対して、常に高度な論理性と世界中の過去から学んだエッセンスを適用しているはずなのだ。こんな難しいこと考えているわけないよ・・・ともし感じるのであれば、あるいは日本の政治を見てそう思うのであれば、それは自らの劣った基準で物事を理解しようとしているからだ。

 

 

 

 

日本の未来を想像する(悲観編)

 

本書を読了した多くの人が、自分がそうだったように、おそらく「では日本はどうなるだろうか?」という疑問を持つはずだ。著者も本文中に書いているように、遅かれ早かれ、あるいは程度の差こそあれ現在の中国が爆走しているこの道を行くことにはなるだろう。ただしその結果として本文中にあるように、テクノロジーが社会をより良い方向に向かわせると感じる人間が多いかというと、そんなことはないと思う。むしろ、不幸な監視国家・日本となってしまうのではないだろうか・・・という懸念の方がはるかに大きい。

 

中国に5年半ほど住んでいた経験を持つ自分から見ると、日本国内における「公共における紛争」あるいは「私的な紛争」の解決というのは、はっきり言って日本も中国もそう変わらない(※1)。むしろ、声だかに文句を言い合う中で周りの人間が積極的に関与したり、陳情やネットでの戦いによって状況を劇的に変える可能性がある中国の方が、本書で言う所の「天理」を実現しやすい部分がある、と感じることすらある。

 

 

日本は中国のようにある特定の団体が独裁的に統治を行う国ではなく、警察や公共団体の対応も法に則ったものとなっているはずである。確かに、現在の日本においては少なくとも法執行機関が意味不明の暴力を振るうことはないし、右派左派問わずに政治家た公的地位にあるものを批判してもそれ自体で罪に問われることはない。
一方で2019年に話題となったような「上級国民」という感覚、言い換えれば、一部の政治的権力や警察権力などに繋がることができると思われる人間には「ルールが平等に施行されていない」と感じてる人も確実に増えている。そして残念ながら、多かれ少なかれ、そういうことはあるのだろうと感じる自分もいる。
こういった感覚が一定以上になった時、おそらくなんらかの形で「人間よりも公平であるアルゴリズム」の社会実装を求める機運というのは間違いなく大きくなるはずだ(※2)

 

では、こういったアルゴリズムは、本書で言うところの「功利主義」に冷徹に則って稼働するだろうか? 残念ながらそんなことはない。
中国の場合、こういったルールから見逃される現代の特権階級(士大夫)は極端に言えば「権力を握ったごく少ない層に連なる」人間であり、共産党に所属していようが、軍に所属していようが、やられる時はやられるのである。これはここ数年の中国で起こった通りである。

 

一方で、日本はどうかというと、我々は中国で見られる人間関係の結びつきよりも、よりゆるい「ムラ」の感覚のほうが公的な関係として残っている。2019年の現代ですら、このムラの理論により法律の運用が合理的に行われていないように見える日本で、もしアルゴリズムがあるムラにより運営されることになれば、それはよりブラックボックス化してしまう。

恐ろしいのは、こう書いている自分ですら、何かしらの縁 == ムラの一部であり、全ての日本人は強弱の別はあれ、ムラにいなければ生きていけないということなのだ。つまり、我々は誰が運営主体となっても「ムラのための例外」をアルゴリズミに加えたいというプレッシャーから逃れるのが非常に難しい状況にある。一方で民主主義国家である日本では、ある時期における支配的なムラが未来永劫の支配圏を持つということを意味しない。

 

 

ブラックボックス化され、運用主体の恣意性が入ってしまったアルゴリズムはある特定の層や思想をもつグループを合理的かつ速やかに排除することが可能になる。一方で、運営側はその権力を持ちつつも、オセロの終盤のように盤面がパタパタと変わっていくことを常に恐れなければならない。誰もが不幸になる監視国家、これが自分が持つ極めて悲観的な未来予測だ。

 

 

 

技術が自分たちを支える未来を想像する(希望編)

 

 

上記のような悲観的な未来を避ける一つの方法として自分が考えるのが、純粋な私的紛争や公共空間における私的紛争、あるいは地域的に限定された公的空間での紛争に対して積極的に先端技術を活用して問題を解決していくという方法である。

なぜならそういった技術の活用が、本書と指摘されている中国の課題であり、同時に僕が日本も同様の事態に陥っていると感じる「私的利益の基盤の上に公共性を構築する」ための手法になると考えているからだ。また、民間や限定された空間での積極的な利用が進められれば、国全体でガサッと網をかぶせるようなシステムを構築する必要性がなくなるのではないか・・・という期待感もある。

 

上記の一例をあげてみよう。

例えば、純粋な私的紛争でパッと思いついたのは「マンションにおけるゴミ捨て問題」である。マンションに住んでいる人であれば、誰もがルールを守らないゴミ捨てに悩まされた経験があるだろう。これは、マンションという純粋に私的な空間であるが、一方でマンション内の空間というある種の公共の問題でもある。

これまでのこういった問題の対応というのは、誰がやったかわからないので我慢する、あるいはわかったとしても証拠がない/議論が出来ないなどの理由で対応が出来ない、となってしまう例が多いはずだ。しかし、例えば監視カメラ・・というと感じが悪いので、動画認証と顔認証をマンションに組みわさればどうだろうか。

ゴミ捨て場に入るときには顔認証が必要である、とか廊下に動画認証でゴミを持っている人が出たら録画をする・・・といった対応をすれば、抑止力になりうるし、管理上の規約に違反項目を追加した場合の実効性を担保することにもなるだろう。

純粋に私的な空間である以上、プライバシーの問題も相互認証と理解により対応が可能なはずだ(もちろん、導入段階での揉め事は覚悟しなければならないだろうが・・・)。

 

また、公共空間における私的紛争、の例では「公園の騒音問題」というものが例としてうかんだ。
現代の公園では「騒音であると自治体に文句が入ると、揉め事を避けたい自治体が禁止事項を増やしてしまう」ということがよくある。本来は公共空間における衝突する利益を調整するための公共性が、一方的な方向性に触れてしまうという例だ。
これなども、ルールさえ明確に定義できれば、騒音レベルの計測とそれを超えた場合に自動で対応するというアルゴリズムを組んでしまえばよい。もちろんルールそのものに文句をいう人間はいるだろうが、そのルールの策定ことこそが、まさに人間がやるべき仕事になるのだ。

 

ここで重要なのは、あくまで技術はその事象を正確に捉える閾値を跨いだかどうかを判断するために利用するのであって、その事象をどのように処理するかというルールは人間が決めるということだ。そして、そのルールは一部はアルゴリズムにより処理され、一部は人間により処理が行われる、判断ではなく。

上記のような考え方を全員が賛成するというのは、なかなかに想像がし難い。しかし、日進月歩で進む技術を社会に取り込む際には、全否定/全肯定の間こそが最も安定的であるであろうと信じている。そして、国家の介入を防ぐという立場の人間こそが、むしろ私的な対応を積極的に行うことで、介入の必要性を不断に取り除く必要があると、僕は思うのだ。

 

 

※1・・・ここでは、問題が起こる割合の話をしているのではなく、問題が発生した時にどのように紛争が解決されるのか・・ということに注目している。
※2・・・AI等の最新技術の活用を進めることを本業とする立場としては、例えば地方自治体における事務とか、スピード違反の取り締まりとかそういったものは全部自動化してしまっても全然問題ないし、むしろその方が質が上がるであろうとは現在ですら思っている。

2019年8月16日 (金)

我が家のオムツ戦記:4歳後半でオムツが取れるまで(その3)

(その2より)

 

オムツが取れないまま年中になってしまった我が息子。本人は依然としてオムツ大好きだが、そろそろ親が決意する時が来たのだった。

 

年長での取り組み ~ オムツが取れるまで

 

いくら決め事が少なくオムツについても寛容な園といっても、やはり少しずつ皆成長していくわけで、気がつくと年中になってもオムツをしているのはうちの息子だけという状況になってしまった。さすがに親としてはそろそろ卒業して欲しいという気持ちでいるものの、本人は卒業する気は全くなく「5歳になったらバイバイする」といいつつも、トイレに行きたくなるとパンツからオムツに履き替えるという感じだった。


そうはいいつつも5月に入る頃には、おしっこに関してはだいぶ慣れて来たようでパンツでいる時間も増えて来ていたのだが、依然として問題はうんちの方。オムツをしている時も、うんちをしたいタイミングではふと立ち上がったり、ポジションを取っているわけで、決して便意がわからないわけではない。ただ「トイレでする」という経験に対して恐怖感を持っているのだ。


うちの息子は何かを言って「わかりました」とすぐに行動にうつすタイプではない。長い(通常は数ヶ月)心の準備期間があり、何かのきっかけでいっきに化けるというタイプである。そういった特性も踏まえて、さすがにいつまでもトイレトレーニングを続けるわけにはいかないと、5月の頭に妻が「7月末にはオムツから完全にバイバイする。もし出来なければ、パンツで漏らすことになる。それでも構わない」と力強く宣言をし、毎日ホワイトボードに書いてある日にちを消していくという準備を始めた(※1)。それを見て、ついに本気で息子も心の準備を始めたようだった。

 

 

もう一つ本気でオムツから離れる準備を始めるきっかけとなったのは、今年こそプールデビューをするという約束があったからだ。およそあらゆることに慎重なうちの息子は、家のお風呂以外の水に入るのは大嫌い。4歳になるまで夏の暑い盛りに水遊びをするなどということは一切なく、当然プールなどというものには触れもしなかったのだが、こちらも両親の強い意向で2019年の夏(彼にとっては4歳夏)にプールデビューをすることを承諾させた。プールに入るためには、オムツではいけない。この説得により、少しずつ息子の気分も(嫌々ながらも)前向きになっていったようである。

 

そして、チャンスは突然来た。
6月のある週末、何気なくリビングで父子で寝っ転がっていた時に息子が「お腹が痛い感じがする」と言い出した。それまでも、うんちのためにトイレに座る・・・という練習はしていたものの、タイミングでなければ出ないわけで空振りが続いていたのだが、直感的にこれはチャンスだ、と感じた。


息子を抱えてトイレに座らせ「ずっと一緒にいてあげるから、出るまでトイレから出てはいけない」と伝えると、すぐに「お腹がいたい、出そう!」という。いいよ〜がんばれ〜と応援すると、大きな声で文句を言っていたのだが、ある瞬間”ポチャン”という音が。ついに生まれて初めてトイレでうんちをするという瞬間を迎えルことができたのだった。本人としては”ポチャン”という音が驚きだったようで、「変な音がする!!」と叫んでいたのだが・・・。

 

 

実のところその後数日間は下痢になってしまったので、おそらくこのトイレはちょうどお腹が緩くなったタイミングだったようだが、いずれにせよ、ついにハードルを超えることが出来た。息子は、最初の第一歩を超えるまでの時間はかなりかかるが、それを超えてしまえばあっという間に習慣に定着するタイプなので、以降はスムーズに進み、一月もしないうちにオムツと無事にさようならをすることが出来た(睡眠時はもう少し時間がかかりそうだが)。


まだ自分でトイレに行きたいタイミングをコントロールすることが出来ないのと、いわゆる"綺麗なトイレ"でないとビビってしまうため、そういったトイレがあるところでの声かけは欠かせないが、それでも日常はオムツに頼ることなく生活をしている。さようなら、毎月のオムツ代。

 

 

というわけで、我が家は明らかに人一倍オムツが取れるまでに時間がかかったわけだが、そういった子供を持った親の立場からすると「時間はちゃんと解決してくれる」ということである。もちろん、ただ漫然と待っていただけでは今もオムツのママであっただろうというのは想像がつくので(なにせ、彼はオムツのままでいることが別に恥ずかしいとは思っていなかったので・・・両親ともに恥ずかしいことだ、という言い方もしなかったのだが)、本人が出来ない理由を明確にしてあげることもとても大切だ。


うちの息子の例はかなり飛び抜けて遅い方だとは思うのだが、もし悩まれている親御さんがおられたら、世の中にはこういった例もあるんだよ・・・という勇気づけになったら大変嬉しいです。

 

 

※1・・・我が家は親子のお約束を書いたり、父親の出張予定を記録しておくために、小さなホワイトボードが何枚も準備されているのだ。

2019年8月15日 (木)

我が家のオムツ戦記:4歳後半でオムツが取れるまで(その2)

(その1より)

最初のターゲットとなる3歳誕生日までにはオムツが取れるような気配は全くなかった息子は、そのまま幼稚園(認可外保育園の幼稚園コース)への入園となったのだった。

 

 

◾️ 初めておしっこがトイレでできるまで(4歳直前)

 

息子が通っている幼稚園の教育方針の一つに「本人がやる気になるまでは無理強いをしない」というのがあるためか、園の先生たちもオムツに対しては寛容で「声かけはしますけど、焦らなくてもいいと思います」といっていただけるような環境で、幼稚園生活を始めることができた。実際に息子以外にもオムツがまだ取れていない子も複数いたし、保育園なのでオムツを履いている乳児もたくさんいるというのも理解があることの要因ではあったと思う。

 

夫婦ともにそういった環境に感謝しつつも、特に自分が強く主張したこともあり、園生活に慣れた頃からオムツトレーニングは行うことにした。息子の様子を見ていると、オムツが外れない要因として「おしっこ/うんちがしたいタイミングがわからない」ことと、「トイレそのものが嫌い」という2つの要因があることがわかったので、それぞれに対してトレーニングを行うこととした。

 

まず「タイミングがわからない」ということに対しては、少しずつパンツ(我が家の呼び方ではお兄さんパンツ)を履く練習をした。最初はそれこそ数分でオムツに戻したいと泣いていたのだが、ある程度時間をかけると、数時間は履くことが出来るようにはなった。依然としておしっこのタイミングがわからないため時々漏らしてしまうことがあったが、それも叱るようなことはせず「次にがんばろうね」と声かけをしていた。


「トイレが嫌い」ということに対しては、普通の便座にかぶせることが出来る子供用の便座を買ってきて、そこに座らせるところからスタートした。こちらも最初は数秒しか座れないという感じだったが、時間をかけることで数分間(といっても普通は1分以内)は座ることが出来るようになった。


こういったトレーニングは日中は自分は仕事をしているので、全て妻が対応をしていた。専業主婦の利点を活かしたともいえるが、辛抱強く対応をしてくれて本当に感謝している。

 

そういったトレーニングを繰り返す中で、ちょうどうまくタイミングがハマった4歳直前に初めてトイレでおしっこをすることが出来た。この時は本当に偶然だったのだが、とりあえず4歳直前でトイレで用をたせたのというのは、親子ともに一つの自信となった。・・・とはいえ、家にいる時にタイミングが合えばトイレでおしっこが出来るというところまでが精一杯で、4歳になるタイミングではまだオムツトレーニングを完了することが出来なかった。

 

 

◾️ 年中になるまで

初めておしっこが出来てから、翌年の4月になるまでは半年近くあったのだが、一時的とはいえ息子が精神的にやや不安定になる時期があったり、そもそも冬の寒い時期はオムツトレーニングにあまり向いていないだろうということで、正直なところあまりトレーニングは進展しなかった。
パンツを履く時間は長くなっていたものの、幼稚園でおしっこがしたくなると、まずはオムツに履き替えさせてもらって、そしてオムツでおしっこをするという感じだった。言い換えると、おしっこのタイミング(我が家では「ムズムズする感じ」と呼んでいる)は体でだいぶわかるようになったものの、依然としてトイレは怖いままだったということだ。

 

この時期は自分も送り迎えをする機会を意図的に多くして、例えば登園時のバスはオムツにして、園についたらパンツに履き替えるといったように、とにかく不安感を取ることを心がけていた。また、園の理解もあり、たとえおしっこをしなくても、とりあえずトイレに誘ってもらうということをしてもらっていた。
こういった努力はあったものの大きな進展もなく、オムツトレーニングが完了することもなく今年の4月に年中になったのだった。

 

 

(その3に続く)

2019年8月13日 (火)

我が家のオムツ戦記:4歳後半でオムツが取れるまで(その1)

子育てをしている家庭にはそれぞれの悩みがあるものだけど、ネットを調べるとだいたいの悩みについてはそれなりの数の回答を見つける事ができる。好き勝手発言できるネットの悲しみで、その回答は玉石混交・・・というか、基本は石ばっかりで、たまにマトモな記事があるというのが正直なところだ。

 

この1年半ほど我が家の悩み(※1)であったオムツの卒業についても、3歳前後だとそれなりのTipsが紹介されているものの、4歳を超えるとほとんどがない。たまに書き込みがあっても、Yahoo知恵袋のようなサイトに飛ばされて「人の成長は、人それぞれだもんね」みたいな慰めと「人間としておかしい、治療をお勧めします」みたい書き込みが交互に並んでいたりする。見ても何の参考にもならないばかりか、苛立ちのみが増える・・・しかし、見ずにはおられない・・・というのが親としての偽らざる心境だった。

 

そんな我が家もついに先月、4歳後半にしてついにオムツ卒業の時を迎えることが出来た。気がつけば、幼稚園に行く前にしっかりとトイレにいくようになっていて、毎日感動することしきりである。せっかくなので、碌でもないネット記事の海にまた一つ追加してしまうということになるであろうけど、我が家の息子のオムツ卒業までの道のりを書いておこうと思う。名付けて「我が家のオムツ戦記」である。




最初の目安:3歳の誕生日

 

共働きや早期教育で保育園に通園している子供の場合は保育園でオムツ外れまで面倒を見てくれる事が多いと聞いているが、我が家のように保育園に行っていない子供の場合、オムツバイバイの季節の最初の目安は3歳の誕生日だと思う。ベネッセのサイトをみても、3歳を見ると「まだ取れてないの」みたいな雰囲気が出ているし、アンケートによると2歳半までにはトライをしている親が約半数らしい。大きな理由として考えられるのは、幼稚園の入園時に「オムツが外れている事」という条件をつけている園(特に私立)が多い事があげられると思う。そういう条件がなかったとしても、これまでのように「誰かが常に見てくれている状態」ではなくなるわけで、親としてはオムツが外れてくれた方がいいと感じるのは自然なことだろう。

 

さて、我が家の場合だが・・・3歳の誕生日ではオムツが外れることなど夢のまた夢だった。以前に幼稚園選びの際にも書いたのだが、そもそもオムツが外れていることを条件にしている園は、最初から対象外とした。園の選考の際にはまだ2歳だった息子は、トイレで用をたすなどということはおろか、おまるにまたがる事すら経験がなかった。

 

時期がくると、しまじろうのために契約しているベネッセからは毎月トイレトレーニングのグッズが送られてくる。我が家でも、トイレに音を出すおもちゃを設置したし、おまるもまたがるタイプのものと、立ったままおしっこをぶつけるタイプのものを購入した。なぜか立ったままの向けタイプを気に入った息子はお風呂にそれを置くことを主張したため、リビング用とお風呂用に2つ購入した。



・・・しかし、まったくトイレに行くそぶりはなかった。「トレーニングをしてうまくいかない」というレベルではなく、「そもそもトレーニングを拒否する」という状態だったので、早々にオムツでもOKな園のみを対象とした。

 

やや感覚過敏な傾向がある息子は、どうやらトイレのヌメッとした雰囲気(白い陶器の雰囲気)が好きではないらしく、ドアを開けたままでも個室に一人になるということも嫌だったようだ。また、後の検診で「やや体の成長が遅れている」と診断もあったよう(※2)に、膀胱の発達も進んでいなかったようで、いわゆる「ムズムズする」という状態も全くなかったらしい。
ということで、世の中では1つの目安となっているであろう3歳でのオムツ卒業に向けての我が家の方針は「潔く諦める」であった。



※1・・・大部分は自分の悩みで、妻は自分ほどには悩んでいなかったように見える。「オムツ取れなかった大人はいないでしょ」といいきる心の強さが我が家の母にはある。
※2・・・この診断の話はまた別の機会に書きたいと思っている。

2019年8月 1日 (木)

深圳のハードウェア・イノベーションを勉強する

中国に長くいたとはいえ基本的には上海を中心に生活していたので、ここ数年で深圳についてはほとんど知識はない。気がついたらメディアではすっかりイノベーションの都市という扱いになっていて、確かにそういった一面もあるのだろうけど、一方でシリコンバレーにちょくちょく顔を出すようになり「結果だけ見てイノベーティブであるかどうか」を見ることに意味はないということに気がついた身としては、ちゃんと勉強をしようととりあえず関連書籍を二冊読んで見た。Photo_20190801115101

一冊は中国の経済問題に対して様々な媒体で積極的に情報を提供されている梶谷懐先生の「中国経済講義」。刊行されたのは昨年8月で購入後すぐに斜め読みはしていたのだが、今回はじっかり腰を据えて再読。梶谷先生がブログなどで発信されていた様々な内容をまとめたという趣の一冊なのでものすごく新しい内容があるというわけではないのだが、一方で経済週刊誌しか読まずに中国を判断しようとする人にはかなり新しい知見が含まれているのではないだろうか。イノベーションに関する論考は第6章にまとめらている。

もう一冊は実際に深圳でハードウェア製造の会社を経営されている藤岡さんの「ハードウェアのシリコンバレー深セン」に学ぶ−これからの製造のトレンドとエコシステム」。こちらは梶谷先生の本とは大局的に、著者が実際に深圳で悪戦苦闘する中で学んだことがコンパクトにまとめられている。自分のように中国で数年間生活し戻ってきた人間からすると、まず長年にわたり現地で切った張ったを繰り返し、会社を経営し続けるということだけで尊敬に値する。この本もお行儀のよい経営者本にはないような生の迫力があって、単純に著者の冒険を後追いするだけで楽しい。

 

● 公版/公模とデザインハウスについて
今回参考にした二冊の参考書には深圳の独自の強さの源泉として、基本的な機能が一枚のボードとして提供されているという「公版/公模」の存在と、様々な有象無象の部品の中から最適な組み合わせを見つけることを手助けしてくれるデザインハウスの存在があげられている。自分は深圳で実際に活動をしたことがなく、またハードウェア畑の人間ではないのでピントがずれているかもしれないが、この2つの要素が完全にオリジナルな要素であるかというと、少し違うという理解をしている。
まず、いくつかの機能を組み合わせて標準的な機能を一つのボード上で実現して安価に提供する、というのはソフトウェアの世界ではまさにクラウドサービスがそれにあたる。クラウドサービスを提供している大手ベンダーは標準的な機能を実現するための方法論としてテンプレートと呼ばれる組み合わせを提供し、その上でより複雑な機能を実現したいユーザーに対しては、個々の機能の細かい解説を提供している。ユーザーは各機能についてはこの解説を読めば理解することができるが、実際にシステムを組もうとすると、細かな調整を自分で行うか、いわゆる「SI」と呼ばれる専門職に依頼を行う必要がある。原価の都合により、無償か有償かという違いはあるにせよ、ビジネスの発想としては似たようなものがある。

 

また、そもそもソフトウェア(システム構築)においてはルイ・ガースナーがIBMの改革で実現したように、複数のベンダーから提供されたものを専門家が統合するというサービスが90年代から提供されてきた。これも元々はユーザー企業が異なる規格、異なる仕様のソフトウェアやハードウェアを統合してシステムとして動かすことが非常に難しくなっているというところにビジネスチャンスを見出したわけで、各機能/パーツ/コンポーネントのモジュール化の進展と、その統合を行うための知見の不足を補うサービス業の勃興というのは過去にも実現されているビジネスパターンといえる。
さらにいえば、大変古い話になるが「パーツの見極めと買い物ガイド」というサービス時代は、今ではすっかり変わってしまった秋葉原で似たようなサービスが提供されていたことがあり、複数の有象無象のパーツ(品質管理が十分になされていない製品)が出回る集合的な市場においては、複数の場所で見られる現象なのではないかと思っている。



● イノベーションの類型化の重要性

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もう一つ気をつけなければならないと思ったのは、深圳における知的財産の共有化とも呼ぶべき状況(梶谷先生の言葉を借りると、ポストモダン層)は必ずしも中国にのみ発生した状況ではないし、同時に中国国内においても、この形だけがイノベーションのあり様ではないということだ。「中国経済講義」ではちゃんと指摘されているが、例えば華為は特許取得件数が世界有数の企業であるし、クロスライセンスによって多くの利益を得ることができている。

 

また、こういったハイテクに限った話ではなく、例えばチェーン店による火鍋ブームの火付け役となったといっていい小肥羊はそのスープのレシピを、公的には長く秘密にしていた。これなども、料理のレシピは著作権で保護されるのかという問題はあるものの、知的資産の保持という文脈で言えばモダン層の方向性を持っていると言えるだろう。言い換えれば、中国においても(あるいは欧米においても)、イノベーションというのは様々な類型があり、ある方式が他の方式を圧倒するというわけではないということだ。

 
例えばIBMはいち早くオープンソース・コミュニティーのサポートと貢献を会社の方針として進めていたが、一方でWatsonをはじめとするプロプライエタリな製品の開発はいまだに行なっている。ままた、AndroidとiOSはオープンソース vs プロプライエタリという対立構造にあるが、少なくとも権利の状況が現在のビジネスにおいて決定的な意味を持っているようには見えない。
もちろんこういった諸要素をちゃんと考慮している方もたくさんいるわけだが、メディアに出てくるメッセージは極端に振れる傾向にあるので、ちゃんとした理解をするためには、やはり取り上げられている要素について「縦の検討(歴史的なコンテクストの上で評価を行う)」と「横の検討(特定の事例のみを抽出せずに、他との比較を行なった上での評価を行う)」が必要不可欠であるように思う。

 
自分は経済学者ではないので、「なぜ深圳が出来上がったのか」を厳密に議論することはそれほど興味があるわけではないが(※1)、少なくともこの二冊を読んだだけでも「日本に深圳のような場所を作る」というのはかなり荒唐無稽な問いの建て方であるということがわかる。深圳とのようなクラスターを検討する際にあたっては地理的な優位性(要するに、距離が近いことのメリット)というのはほとんど意味をなさないのであるが(※2)、とはいえせっかく近くにあるのだから、しっかりそれを利用するという気持ちではいたいとは思っている。
ちなみにイノベーションのもう一つのメッカであるシリコンバレーでは、こういった「ハードウェアの組み合わせによるイノベーションの創造」というのはなかなかし辛いところがあるので、「全世界におけるイノベーション」という観点からは住み分けが出来るのではないかと感じている。シリコンバレーでハードウェアをやろうと思ったら、どうしてももう少し大きいロボットになるか、センサーのようなものが主になるかな・・・。

 

※1・・・大学院時代に、青木昌彦の比較制度分析を研究室で勉強させられたこともあり、こういった議論は嫌いではないけど、とてもじゃないけど専門家にはなれない・・・。
※2・・・もし距離だけが問題になるのであれば、メキシコやカナダのほうがずっとイノベーションへのキャッチアップが高いはずだが、そうはなっていない。

2019年7月19日 (金)

最近読んだ本のこと(2019年6月・7月)

子供が大きくなってきて少しずつ時間をとれるようになり、いっときよりも本を読む時間をとれるようになった。子供が寝た後で完全に家で一人になった時間(主に深夜)は映画やビデオを見たり、ゲームをしていることが多いので、本を読むのはもっぱら「子供と起きていて一緒の部屋にいるけど、積極的な一人活動はできない」という時である。

 

 

● 性と欲望の中国51triwpwypl_sx309_bo1204203200_

現代中国に関連するルポを積極的に発表している迷路人こと安田さんの最新作。「八九六四」で城山賞と大宅賞を受賞した後の第1作。タイトルはかなりあれだが、「国家と個人が同一の地平に並べられ、遠近感と立体感をもった世界観を描き出す」といった安田さんの作品の特徴は変わらず保たれている。言い換えると、安田さんの視点では常に人が中心におり、国家、特に中国という無機質な存在と思われるものでも、そこに人がいるという意識が常に持たれている(それが最も強く出たのが八九六四だったと感じている)。一方で、もともとは中国掲示板の面白ネタ翻訳からキャリアをスタートされているので、本作のようなアングラネタはなんとなくではあるが、生き生きされているようにも感じる。

自分が中国にいたのは2007年~2013年なので、本書で取り上げている「欲望が爆発した期間」にちょうど重なる。確かにあの頃は、上海でもかなりおおっぴらに風俗店が営業していたし、日本からの視察もひどいのになると、「昼の予定はこれから考えるが、先に夜の予定を抑えたい」という要求がきたりしていた。また、本書にも取り上げられているようにいわゆる高級風俗店後ろ盾となるような存在がいるのも事実で、中国に長く住んでいる方やお金を持っている方に、そういう人を紹介された経験がある日本人も多いだろう。





● 【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派41zgkxsypxl_sx339_bo1204203200_

購入したのはかなり前だったのだが、内容の難しさ(正確には難しく見えていただけなのだが・・・)により、長い間積ん読になっていた一冊。しかし、読み始めるとわかりやすくかつ面白い内容ですぐに読み終えてしまった。この一冊で何かをわかったふりなどとても出来ないが、勉強のきっかけにはなる一冊だ。

自分の理解が正しければ本書で書かれているメッセージというのは一貫していて、中東の争いは宗派対立(あるいは宗教対立)ではなく、宗派という団体間の争いであるということだ。言い換えれば教義そのものが問題の中心にあるわけではなく、それぞれの教義を掲げる団体同士の政治的、あるいは経済的な主導権争いが根幹にあるということだ。
歴史を見れば、宗教的な権力者であろうと政治的な権力者であろうと、彼らは常に実利(経済力/政治力)を求めて行動をしているわけで、その実現のためにメッセージや横のつながりというものを作り出そうとする。なので、今日における状況も基本的な構造は変わらないというのは、極めて理にかなった説明であると感じた。

ただ一方で、本書でも国レベルの意思決定において「信じている教義の違い」が要因の一つとなっていると読み取れるような記述もあり、人間の基本的な認識の枠組において宗派/宗教の違いそのものが影響しているという可能性も検討されるべきであろうとも感じた。おそらく、実際の研究活動においてはそういった要素も考慮されているのではあろうが、ページ数の制約もある中で、まずはマクロの構造を理解することに主眼をおいたのだろうと想像している。


● 台湾とは何か

自分は主に上海に5年半住んでいたが、とても「中国について語る」ことなどできない。これは何も自分に限ったことではなく、およそあの広大な国の経済、政治、文化、その他もろもろをひとまとめにして語ることが出来る博識かつ勤勉な人間はおよそ存在しないのだ。ゆえに、よくメディアに出て来る「中国通」という肩書きをつけて仕事をしている人をみるたびに、自分の中では7割減で内容を評価するようにしている。41n6oqit6l_sx304_bo1204203200_  

更に言えば、およそ現代においてある国について語ることが出来る人間などというのは、極めて限られているといえる。大きさにすれば数十分の1、人口もおよそ10分の1である日本についてだって、どれだけの日本人が「日本について語る」ことが出来るだろうか? せいぜい自分の経験と興味をもった分野のみが語れる程度だろう。
ここ数年、女性誌などにも繰り返し取り上げられたり、つい最近ではタピオカがいきなりブームになった台湾についても同じことが言える。あのけっして大きいとはいえない島を取り巻く複雑な環境とダイナミックな経済の動き、そして総統選のたびに大きく流れが変わる政治について的確な解説を行うことが出来る人間はほとんどいない。

本書の著者である野嶋剛さんは、その「数少ない」人間の極めて有力な候補の一人である。大陸側にも留学経験があり、また実際には台湾にも駐在をしていて野嶋さんは、その豊富な知識と現場の経験、そして冷静な目でマクロからミクロまで台湾について語ることが出来るジャーナリストだ。おそらく心情的には民進党に共感を持っていることは筆致から感じられるが、それも極端にならないような自己抑制が効いている。トレンドの一つ以上の存在として台湾を知りたいと思う方には、最良の入門書だ。

2019年6月17日 (月)

日本ではS級が今後生まれるだろうか (書評: 中国S級B級論 ―発展途上と最先端が混在する国)

中国ウォッチャー的には、twitterとブログで中国政治を解説している水彩画@suisaigagaga が書籍デビューすると言うことがおそらく一番の楽しみであったであろう本書。とはいえ、話題性だけの数多ある色物中国本ではなく、本作の執筆陣はいずれも実力派揃いである。それぞれの領域で積極的に発信をされている方々ばかりなので、常日頃から発言をチェックしている人にはやや物足りないかもしれないが、いわゆる「遅れてて笑える中国」から「最先端のIT活用大国である中国」まで日本人がもつ中国のイメージが変化していく中で、実態として彼の国はどのような状態にあり、どうしてそのような進化と並存が可能になったのかを解説するのが本書の狙いである(詳しくはここをご参照のほど)


● S級が生まれる前の中国と、サービスの萌芽 ●517yla18bwl_sx342_bo1204203200_


2007年〜2013年という自分が大陸に住んでいた時期は、本書で取り上げられたS級はちょうどサービスの芽が生まれた頃にあたる。Wechatはすでに存在していたが、まだpayment機能は実装されていなかったし、Alipayはweb上では利用可能だったが、今のように広くどこでも利用できるものではなかった。4Gは商用化されていたが、アプリによる様々なサービスが実現する直前という時期だったと言えるだろう。当時使っていたスマホはHTC製、いまではすっかり存在感を失ってしまったが当時はトップメーカーだった。


一方で、S級が産まれるような土壌というのはすでに十分に育まれていたように思える。米国のTopスクールをでた中国系の人間が大陸に移ってきてビジネスに参加するということも普通にあったし、TencentやAlibabaは積極的に中国国内の理系トップを高給で採用をするようになっていた。給料が高いが仕事は激務・・・というのが、当時の中国国内におけるこれらの企業のイメージだ。
また、スタートアップの成長スピードもかなりのもので、中国における食べログのような存在であった大众点评は、私が最初に務めた企業で上海に赴任した時に作ったサービスをわずか数ヶ月でコピーしてリリースし、営業体制もあっという間に構築してしまった(今では合併して美团大众点评という会社)。この会社とはその後数年経ってビジネススクール時代に訪問することがあって、「あの機能を実装したのは、自分なんだよ」と話したら、驚かれて色々と深い話をすることができた。


デジタルの世界では、そのころはアプリというよりもWEBサービス全盛だったし、さらにWEB上のサービスといってもFlash利用がものすごく多かったのだが、それでも当時のデザインレベルやゲームアイデアなどは急速に改善しており、遠からず米国にキャッチアップすることは容易に想像される未来だった。本書で取り上げられる企業のいくつかはまだほとんど世界に知られていなかったが、それでもS級への揺籃期にあたる時期に僕は上海にいたのだろう。


 


● S級は屍の上に ●


本書の主要テーマではないのでそれほど深堀はされていないテーマの一つに、中国における猛烈な競争環境があげられる。シェアサイクルが一つの例としてあげられているように、中国では新しいサービスが生み出されると、雨後の筍という言葉ではとても生易しいぐらいのスピードで猛烈な速さで次々と類似サービスが産まれてくる。さらに、そこに豊富な資金が提供されることで、広大な国内展開と国際展開が同時行われ競争環境は加速されるという構造にある。


この過酷な競争環境は猛烈な勢いで製品の改善を促す一方で、投入された資金があっという間に消費されていくという状況もうみだし(中国語では焼銭と呼んでいる)、資金が尽きた企業は市場から退場をしていくことになる。さらにこれらの新興企業に加えてAlibaba, Tencent, Baiduなどの既存プレーヤーが時に投資を行い、時に類似サービスを立ち上げて市場を加速させる。


 


そういって競争の末に本書でS級と呼ばれるサービスが立ち上がるのだが、その裏には膨大な数の屍(退場した企業と実を結ばなかった投資)が並ぶことになる。中国のように成長が早い市場では、新興企業での失敗自体は必ずしもキャリアでマイナスになるわけではないし、個々の人間にとっては有意義な経験となることも多いはずだが、それでも投資側からすると投下資金が溶けてしまうという現実には変わりがない。
中国のイノベーション議論ではその社会実装の柔軟性が取り上げられることが多いが、資金投入側のリスク許容度という意味においても日本との違いは大きい。


 


● 今後日本でS級はうまれるだろうか ●


本書を読んでいてずっと自分の頭の中にあったのは「中国ではS級が”新しく"産まれた。では、日本はどうだろうか・・・?」という疑問である。自分もプレーヤーの一部であるだけに、あまり悲観的な話をすべきではないが、この疑問に対する答えは残念ながらNoだ。
完全に整理しきれていないものの、中国においてS級が産まれ、日本において産まれないであろうと想像されるのは主に以下の理由だ。



  1. 人材の高い流動性
    中国国内において問題とされていることの一つに「人材がなかなか一つの企業に定着しない」というのがあげられるのだが、ことイノベーション関連に関して言えば、この流動性の高さは武器になっている。特に「立ち上げ → 撤退」が繰り返される分野においては、人材流動性が高い社会では前職の失敗が必ずしもキャリアの停滞を意味しない。人材が常に撹拌されているような状況においては、「過去の経験」をすぐに最前線や高い地位で使うことができる可能性があり、社会全体としての活力を生み出している。


  2. 国際展開のスピード
    中国のS級と呼ばれるスタートアップは、国内に広大な市場を持つにも関わらず、創業当初からすぐに国際展開を狙っている。確かにAlibabaやTencentといったプレーヤーは非関税障壁とも言える国策によって守られていたが、今ではそういった保護が必要ないぐらい、圧倒的なスピードで国際展開が行われる。これは、一つには中国人のハイレベル人材は英語を苦にしないこと、もう一つには各国に中国系人材(中国語を話せる人材)が多くいるということが要因としてあげられるだろう。確かに中国においても「まずは中国市場で成功して・・・」という考えはあるが、そもそものスピードが違うので、日本から見るとあっという間に国際展開が行われているように見える。


  3. 投入資金の柔軟性
    成長中の今だから出来ることという気もするものの、上述したように中国における投資熱というは凄まじいものがある。明らかに技術的にはおかしいもの、あるいはコンセプト自体がずれているものであっても、とりあえず派手で成長感が出ていればお金が集まるという状況も一部にはあるようだ。社会全体としては壮大な丁半博打をしているようなものだが、国全体を一つのVCとして見てみれば、どこかが当たれば他の損を十分にカバーできるわけで、このような(ある意味向こう見ずな)ダイナミズムが成長のスピードを押し上げているように感じる。


本書はそれぞれの分野における入り口を提供するという趣があるので、中国についてすでに一定の知識がある人には物足りないかもしれないが、全体を通して読むことで週刊誌やWEBメディアで得る断片的な情報では描けない中国像の一部を提供することができている。もちろん、これで全てだ・・という気は毛頭ないが、最初の一歩として手に取るにはかなりのおすすめである。

2019年5月 4日 (土)

社長が変わって会社が変わり、米系企業でも忖度が支配する(一時的に)

組織というものは良かれ悪しかれトップの意向によって雰囲気が変わるものだけど、米系外資系の場合、レイオフを日本に比べてはるかに容易に行えることもあり、社長が変わるというイベントはかなり会社の雰囲気に影響を与える。僕が勤めている会社も、この2月に部門社長がかわりかなり雰囲気が変わった。一般的に米系組織ではリーダーが変わると、まず前任の否定から入るので(全てについてではないが・・)、目をつけられていた部門ではかなりの荒療治が行われる。



よくSNSでは日本企業のよくないところとして「意思決定基準が明確ではない」とか「上司への忖度が酷い」みたいな話を見るが、実際に米系企業に勤めている身からすると、米系企業だからと言って忖度がないということはなく、むしろ人事権を自由にできる上司が上にいる場合にはその度合いははるかに強い。就任したてのリーダーというのはだいたい最初に自身が進めたいと思う方向性や重要指標などに言及する。
こういった場合の中間管理職というのは、まずは方針に忠実であることを示す必要がある。日本では「上が変わったからと言って、俺たちのやることは変わらねえから・・」みたいな発言をする人が格好いいと思われるし、個人的にもその気持ちはわかるのだが、米系ではまず「Yes」からスタートせざるを得ない。

 

一方で実際の仕事では、むしろ明確にされていないような意思決定を依頼しなければならないことのほうがはるかに多いが、リーダーが変わったばかりの組織ではそういった「おそらく何らかの方向性はあるだろうが、まだ明確にされていない」ことを中間管理職が上にあげなくなり、急速に忖度が支配する・・・というよりも、上司の判断基準がわかるまでは、とりあえず様子見という判断がなされることがいきなり増える。誰も虎の尾を踏むような真似はしたくない、ということだ。

 

なので一般のイメージとは裏腹に、米系企業で「強い社長が大方針を打ち立てて、中間管理職が一斉に動き出す」みたいなことは実際にはほとんどない。強い社長が来て改革が急速に動き出すのは、基本的に社長がマイクロマネジメントだからだ。中間管理職側としても、基準がよくわからないまま判断を委譲されて、報告をあげてみたらハシゴを外される・・・というよりはマイクロマネジメントでも最初に判断基準を学べる機会があったほうがよい。



ということで、米系企業では否応無しに新リーダー着任時は「いきなりこれまでの方針が否定されて、打ち手が打たれる」部門と「なんとなくこれまでと同じことをするが、意思決定スピードが遅くなる」部門が並存することになる。我が社も例外ではなく、色々なところで変化時特有の澱みを感じるようになった。あと数ヶ月すれば、落ち着くところに落ち着く(はず)だが、暫くは粛々と日々の業務を行うということが続きそうだ。



GW直前にその部門社長と1:1で面談をしたのだが、日本は重点マーケットということで引き続き強化をして行きたいとのことだった(具体的な打ち手はこれからだが)。なにせ、実質的に話すのが初めてなので、こちらもやたらと緊張したのだが、印象的だったのは「小さな企業(スタートアップ)で成功するには、経験は十分条件で、スタートアップで上手く行くようなDNAを持っていることが重要だ」と話していたことだった。
基本的にこういったスタンスは前に勤めていた大企業では許されないので、なるほど生涯をスタートアップ関連で生きている成功者はそういった思考になるのだな、と感心した。まあ、話している間は“ジェダイになるにはフォースが必要で、フォースを持つかどうかは生まれながらに決まっている、みたいな話だな”とか、そんなことを思っていたのだが。。。

 

一寸先は闇という言葉が人生でこれまでにないくらいヒシヒシと感じるようになった2019年。なんとか平穏に年を越せるようにしたい。。。

2019年5月 3日 (金)

流行りにのって令和元日に考えたことを書いてみる

我が家はほとんどテレビを見ないのであまり意識はしなかったのだが、4月30日と5月1日は年越しのような感じの番組がいろいろ流れていて、世の中では王いう雰囲気なんだなというのを旅行先でようやく感じることとなった。個人的にはこの10連休は子供の面倒を10日連続で見なければならないという以上の意味を見出すのは難しいのだが、せっかくなので流れにのってなんとなく思ったことを書いておこうと思う。



僕は昭和生まれなので年号の上では令和は3つめになるだけど、昭和天皇の崩御の際の記憶はほとんどないので、実質的には平成の人間といってよいのだと思う。平成になってからいわゆる義務教育を修了し、大学院まで行き、社会人になり、中国大陸で暮らすようになり、またまた学生生活を送り、結婚をし、子供が産まれた、これが自分にとっての平成だった。言い換えれば、自分のことだけを考えて、自分の思うように生きてきた30年だった。そう、平成は「僕の物語」の時代だった。

 

これから始まる令和は、まさにその初めの日がそうであったように、子供達が子供たちの物語を生きる時代になる。人生100年時代という言葉を人から言われるのは癪である一方、確かにあと30年以上は働かないといけないのはほぼ確定した未来だが、それでも我々の世代(いわゆるアラフォーというやつだ)は、少しずつ物語の主役をバトンタッチしていかなければならない※1

バトンタッチを考える際に、自分は二つの顔を考える。一つはいってみれば「公人としての自分」で、これは今までの生き方の延長線上にある。急に今から世界を変えるような発明ができるわけではなく、政治家として理想に燃えた生活を送るわけでもない。これまでの人生で理解した自分の能力と特性を活かして、この社会の一員として価値提供をしていくということである。
もう一つの面は「父親としての自分」で、はっきり言ってしまえば、衰退しつつあるこの国家においてどのように生き残るべきか、あるいはこの国を超えてどのようにいきていくのかの路を教えてあげるということだ。
残念ながら、その2つの顔というのはときに正反対の方向性のなるのかもしれないけど、つまり公人としてはこの社会に貢献することを目指す一方で、私人としてはこの社会から離れてどれだけ独自のポジションを築くことができるかを考えるわけで、それは大なり小なり我々の世代が戦わなければならない矛盾なのだ。



既に、日本という国全体を考えれば敗色濃厚な撤退戦を戦っている最中であり、ここから先の見通しはさらに暗い。ただし、それは個々の人生の敗北を意味するわけではない。1人の人間として出来うる限られた範囲であっても日々が幸せであると感じられる、そういった日常を送れるように、そして願わくばその範囲が少しでも広がるようにしていきたいという、極めて当たり前の願いが、新しい時代の幕開けに思うことだ。



※1・・・こういう時に頭に浮かぶのはドラゴンクエストⅤである、やっぱり世代的に。

2019年4月22日 (月)

高齢者の事故を防ぐためには、技術×法制が必要

自分にもまだ幼児と呼べる子供がいるので、こういった事故を聞くたびにものすごく辛い気持ちになるのだが、またも高齢者の運転している自動車による事故で小さいお子様が亡くなられた。
事故の理由については今後の捜査により判明すると期待されているが、こういった事故が発生すると自動車会社はこういった事故を防ぐようにすべきだ」といった意見がSNSで多く見られるようになる。もっと極端になると「自動運転なんかにお金を使うよりも、こういった事故を防ぐ技術を先に開発すべきだ」という意見もある。
繰り返しになるが自分にも幼い子供がおり、そのように思う気持ちも十分に理解するし、実際に我が家でも「どんなに交通ルールを守っていても、車が暴走して突っ込んで来ることがある」という前提で、どのように安全を守るべきかという話を妻としたりする。一方で、新たな技術の社会実装支援を仕事としている人間としては、こういった問題は「技術的に完全に防ぐことはできない」ということも理解している。そこで、今回はそのメカニズムを簡単に解説しておこうと思った次第だ。
 
なお自分は勤務している企業において、複数の自動車関連企業とプロジェクトを実施しているが、当然のことならが今回の記事には業務上で得た知識は含まれていない。また、本記事における主張は個人的なものであり、組織を代表した意見ではないことを明記する。

今回のような事故を防ぐ技術

自動車による暴走事故を防ぐ技術として最も一般的な技術は、前方や後方に障害物がある場合に、自動でスピードを緩める機能でpre-crash safety systemと呼ばれている(該当するwikipediaの技術はこちら)。これはすでに商用化されて久しい技術であり、多くの自動車メーカーによって提供がなされている。駐車場に車を入れる際にお世話になったことがある人もいるだろう。
この技術よりも、より直接的に「アクセルとブレーキの踏み間違い」を防ぐ技術としては、ペダル踏み間違い時加速抑制装置がある。これは、「誤ってアクセルを踏んでしまった場合」に自動車が急加速することを防ぐ技術だ。説明としてはこちらのHPがわかりやすいと思うが、ビデオを見ても分かる通り、ドライバーが踏み込んだ際にも車は急に出発をしたりしない。一方で注意が必要なのは、車が加速しない場合にドライバーがアクセルを踏み続ける場合にはやがて車は加速するように設計がされている。これは後ほど述べる緊急対応を行うためにドライバーの自由度を残しているためだ。こちらの技術もすでに実用化がされており、後付けで装着が可能な装置も発売されている。
他にもドライバーが何らかの理由で運転中に急に意識を失ってしまう、あるいは正常な判断ができないと外部から理解できるような状況においては車を安全に路側帯に止める機能であるとか、車同士が通信を行なって車間距離を適切にたもつといった技術のような、商用化が見えているものの実搭載はなされていない技術も多く存在する。


技術だけでは「すぐに」問題を解決できない3つの理由

こういった技術は自動車会社(あるいは部品サプライヤー)によって開発が行われているが、残念ながら技術的なアプローチだけでは今回のような事故を防ぐことは当分の間(自動車のモデルチェンジでいうと数世代)はできそうにない。これにはいくつかの理由がある。

  1. 緊急時対応は依然として残る
    先ほどのLink紹介時にも書いたように、今の自動車では「緊急対応時に備えて、最後の判断はドライバーが行うことができる」という考え方が基本的な設計思想である。こういった緊急対応の例、日本では想定することはなかなかないが、「自動車の前方と後方に銃を構えた強盗が立っている」という場合を想定しよう。こういった場合、(議論はあるだろうが)ドライバーはその強盗を跳ね飛ばして逃げるということは、自衛のための手段として想定される。逆に自動車が「前後に人がいるために動くことが出来ない」と判断して動くことが出来ず、かつ強盗にドライバーが危害を加えられた場合には、訴訟問題となるだろう(もちろん実際には、購入時の事前の合意などが問われるだろうが・・・)。

    こういった犯罪の場合でなくても、例えば「急に道路が陥没したので、緊急避難として前に車があってもアクセルをふむ」、あるいは「上からものが落ちてきたので、急発進をした」とか、我々日本人に理解しやすい例としては「地震が発生して逃げ場が塞がれそうだったので壁を壊して逃げる必要があった」といった例が考えられる。いずれも、ドライバーが自分の判断で「周囲の状況を理解していても」急発進や急加速をせざるを得ないという状況である。

  2. 現在想定される技術の限界点
    SNSでは「自動運転の時代になれば、こういった緊急対応の問題は自動車側で適切に処理することが出来る」という意見を見ることもある。では、こういった緊急時対応すらも自動車側(駆動系+ソフトウェア)に任せて最適な道を瞬時に判断できるようなことが現在の技術の延長線上で可能だろうか・・? 

    残念ながら現在のアプローチでは非常に難しいと言わざるを得ない。現在想定されている技術で自動運転を実現する際には(いったんここでは自動運転Levelは3~5で幅を持たせると仮定して)近距離+中距離の周囲の情報を取得し、かつマクロの情報を組み合わせて自動車の制御を行うことが想定されているが、いずれにしても「自動車をコントロールする」ソフトウェアを事前に学習させる必要がある。この記事で想定しているような緊急時対応は発生頻度が極めて少ないと考えられるので、通常発生するような状況に対しては有用である機械学習を活用した方法よりも、技術者が様々なケースを想定して事前にプログラムを行うことになるだろう。

    そういった人間がマニュアルでプログラムを行う場合に発生し、かつ解決な問題が2つある。一つは、「人間が想定した以外のことには対応できない」ということであり、もう一つは「AIのコントロールと、マニュアルのコントロールを瞬時に判断して、切り替えることが非常に難しい」ということである。自動運転というと、我々のような40代前後の人間はナイトライダーに出てくるナイト2000のような車を想定するが、現在の技術で実現可能な自動運転車はナイト2000のような汎用的な知識を持つことが出来ない。こういった状況で自動運転車に全てを任せるということは、先ほど述べた①の問題については、ドライバーが運転を諦めるという選択肢しか存在しない。

  3. 技術伝播にかかる時間
    これは現在でも見られる問題ではあるが、最新の技術というのは広く行き渡るにはかなりの時間がかかる。例えば、先ほど紹介したペダル踏み間違え時加速抑制装置はすでに商用化されているが、必ずしも全ての自動車に搭載されているわけではない。現在のところ自動車の平均的な買い替え時期というのは7~9年ぐらいと言われているが、これは平均値であるから、全ての車が先進的な事故抑制装置を持つようになるまでにはそれ以上の時間がかかる。更に言えば、こういった装置は文字通りの全ての自動車が標準装備するか、強制がされない限り常に購入者側に選択基準が存在することになる。現在でも理論的には日本では「エアバッグがない車が普通に走行できる」ことを考えると、今日紹介したような抑制装置が行き渡るまでにはかなりの時間がかかると言えるだろう。

個人的には特に③の理由により、今回のような事故を防ぐには技術的な面での改良よりも、法制面での対応のほうが"実効性が高く"かつ"迅速に"事故を減らすことが可能であると考えている。法制面により対応が可能であるということは、言い換えれば問題解決は我々の選択に依存しているということだ。

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