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2024年10月19日 (土)

[書評]中国ぎらいのための中国史

精力的に書き続けている中国・アジアルポライター安田峰俊の最新の一冊がこの『中国ぎらいのための中国史』。リアルにお会いしたことが何度かあるということで、応援の意味も込めて安田さんの本は全て購入しているが、本作は安田さんに取ってはホームともいうべき中国史に関する久しぶりの書籍だ。

ライターとしての安田さんの持ち味は現地取材や現在進行形の出来事を咀嚼し、中国国内の論理に照らし合わせて解説することだ。その安田さんが書くのだから、中国史に関する本といっても必ず現代に関する内容が入ってると想像していたが、 その想像通りに本書は中国の歴史的な事項が、現在においてもどのような意味を持つのかと言う観点から中国史を解説している。 中国史と言ってもいわゆる通史を書いているわけではなくコラムの集積という感じなので、中国に興味を持っている人であれば、あっという間に読むことができるだろう。

参考のために目次をあげれば、本書で取り上げる内容が大体わかると思う。
第一章: 奇書(諸葛孔明/水滸伝)
第二章: 戦争(孫子/元寇/アヘン戦争)
第三章: 王朝(唐/明)
第四章: 学問(孔子/ 科挙/漢詩と李白)
第五章: 帝王(始皇帝/毛沢東)

この目次を見れば分かる通り、本作では日本人が名前ぐらいは知っているけどよくはしらない、だけど中国では(学校教育の影響もあり)よく知られている題材を取り上げて、それぞれが現代中国でどのような意味があるのかを語っていく。こういう並びを見ると、ルポライターというのは題材選びが重要なんだなということを教えられるような気がする。

また安田さんといえば、真面目な考察の中にばかばかしいネタを放り込んでくることで文章の緩急をつけることが得意なライターだが、本作でも冒頭から「諸葛の姓を持つ人間が現在の共産党幹部に存在している」といういかにもなネタからスタートする。他にも日本でも人気のゲーム「原神」から題材を取ったり、始皇帝の部分では『キングダム』への言及を 忘れないなど、しっかり抑えるべきところを抑えていると言うところにニヤリとしてしまう人も多いだろう。


一方でこちらも同じく安田さんの本らしく、現代中国への批判的な視点をつけることも忘れていない。中国生活をしたことがある人ならわかると思うが、本作でも述べられているように、大学生以上の教養を持つ人間にとっては中国の歴史や漢詩というのは共通言語のようなもので、それを使った社会批判や権力闘争が行われていることを面白おかしく書いている。

ちなみに小学生でも漢詩を誦じれるというと日本人にとってはかなり驚きだが、我々だって「春はあけぼの」とか、「古池や蛙飛びこむ水の音」とかは普通に知っているわけで、文化に紐づいた教養というはそういったものなんだろう。トップクラスの大学に受かるレベルの人だと「漢詩でしりとり」をできたりするくらいなのだ。

2024年10月14日 (月)

母親の死去と相続で大変だったことの記録(その2)

(前回から続く)
肉親が亡くなった際の通夜・葬儀というのは、待ったなしというか怒涛のように進んでしまうので実はそれほど「疲労感」というのはなかった。もちろん精神的にも肉体的にも「大変」なのは間違いないのだが、とりあえず流れは定型化しているし葬儀会社の指示通りに進めていけば問題ない。今回の場合は基本的には家族葬という扱いにしたので、お別れにお越しいただく方も少なく、そういった意味での気苦労も少なかった。

一方で、相続の方は当初から一筋縄では行かないことがわかっていた。
まず最大の問題が、いわゆる”終活”が全くされていないことだった。本人もまだ死ぬ気はなかっただろうし、たとえそういう予感はあったとしても終活のような準備をするタイプではない人だった。家族仲が良好だったら事前に書類を準備してほしいとお願いが出来た・・というのは理想論であって、そもそもそういった会話が出来るのであれば家族仲が悪くなることもないだろう。


そういうわけで、母が亡くなった後にまずすべきことは、様々な書類を探すことだった。その書類には、銀行の通帳や使っていたカード、免許証、マイナンバーカード、保険証なども含まれる。相続という大ごとの前に、まずはどこにどのくらいお金があって、どのくらい支払いが行われているのかを確認する必要があったのだ。

亡くなる前から実家に入っていた弟や、友人として母の面倒を見てくれていた人がある程度探してくれていたが、それでも母が亡くなった時にはない書類も多かった。特に保険証などは結局最後まで見つけることができなかった(これが後々まで事務処理に影響することになる)。そこで母が亡くなってすぐに、自分が実家に行って書類を徹底的に探すことにした。

不思議なもので、最近は家にいったこともなかったのだが、なぜか自分であればそういった書類を見つけることが出来るという自信があった。母が書類を置きそうな場所はなぜか想像がついたし、実家に残っているでろう母方の祖父母の書類もきっと見つけることが出来るだろうと思っていた。一応残された家族の中では、私が一番長く彼女と接していたという自負があったのかもしれない。

 

実際に家を片付け始めると「母ならここに資料を置くはず」と想像をした場所に、必要とする多くの書類が眠っていた。その中には、社会保険の未納に対する督促状など、できれば見たくはなかった書類も多くあったが、少なくとも銀行口座のありかとカードの支払い、免許証などの基礎的な情報は掴むことが出来た。
また家の奥の方をひっくり返してみると、10年近く前に亡くなった祖父が残した書類も多く見つけることが出来た。どうやら母は祖父が亡くなった後にほとんど整理をしていなかったらしく、色々な書類がまとめて出てきたのだ。

祖父は公務員(警察官)を長く勤めた人で、生きている間からとても几帳面の人だった。当時はまだそれほど普及していなかったワープロを買って記録を電子化(というかプリント化)していたし、自分が亡くなるかなり前から色々なものを整理してくれていた。母は「自分はしっかりしている」といつもいっていたが、客観的に見て、彼女はしっかりとした祖父の下で最後まで自立できなかった部分が多かったと言わざるを得ない。祖父が資料をまとめておいてくれたおかげで、墓の権利証や、過去の土地にまつわる近所の人とのやりとりも把握することが出来た。母の準備不足というマイナスを、祖父が補ってくれた形だった。

 

2024年9月23日 (月)

母親の死去と相続で大変だったことの記録(その1)

前回のエントリーでも書いたが、実母が4月の頭に死去した。家にいる時に激しい腹痛を感じて自分で救急車を呼び、入院をしたのが3月の中旬で、それから2週間ほどで亡くなった。 自分は3月の末に1度病院に行ったのだが、その時に医者からかなり難しいと告げられていたので、覚悟はできていた。前回のエントリーで書いたように家族中が良くないながらも、最後に会えたのはお互いに良かったと思う。

肉親が亡くなったのは初めてではないが、いわゆる”喪主”を務めるのは初めてだったので、段取りは全て病院が紹介してくれた葬儀会社に頼ることになった。”葬儀会社の値段が高い”とか”金額が不透明”ということが言われるのは知っているが、現実的に時間が無い中では紹介してくれた葬儀会社に頼むというのが一番確実だと思う。

あまり大事にしたくないという希望があったので、今回も当初は「葬儀なし」ということを検討した。ただそうなると、火葬場の手続きも自分でやらなければならないし、色々な手続きを自分でやらなければならない。事前に準備がされているのであればともかく、少なくとも現在の多くの死亡時の手続きは「葬儀会社に依頼すること」を前提に設計がされているように見える。


今回の場合はその葬儀社を過去に利用したこともあり、コミュニケーションもスムーズに進んだし、通夜葬儀の手配も全て問題なく進めることが出来た。金額はおそらく実母のの年代であればやや平均より高いぐらいだったと思うが、最後くらいはそれなりに見送ってやりたいという自分の意思で決めてしまった。自分には兄弟がいるが、こういったことは長男の自分が仕切るという暗黙の了解があったように思う。

唯一困ったのは、家のどこを探しても保険証が見つからなかったこと。保険証の番号などすぐに問い合わせれば良いかと思っていたが、そう簡単には物事が進まず、これが後々になって大きな障害になるとは当時は予想もしなかった(続く)

2024年9月16日 (月)

母親が亡くなって更新がすっかりご無沙汰になったことについて(頭出し)

気がつけば最後の投稿が5月の頭ということで、4ヶ月以上空いてしまっていた。実を言うと4月の頭に実母が亡くなり、ちょうどその頃から相続対応がかなり忙しくなっていたのだ。実母とはかなり疎遠だったとはいえ両親が離婚をしているため、死後の対応は全て子供達でやらなければならない。

我が家は3人兄弟で自分は長男なのだが、家族仲という意味では決して良好とはいえない。自分と一番下の妹は両親とは5年以上あっていなかったし、真ん中の弟は自分たちよりも頻度は多いとはいえ、母親とは年一回ほどしかあっていなかったらしい。今回の母親の突然の入院に対応してくれたのはその弟だったのだが、流石に亡くなった後の手続きまでを任せるのは難しかった。一番の理由は、彼は仕事の性質上リモート勤務がほぼ不可能だったということにある。また一人っ子であった時期が長かった自分は、他の二人よりは多少は家のことをよく知っているということもあった。

結果として、母親が亡くなった後の葬儀から遺産整理までは、ほぼ全て自分一人で対応をすることになった。途中で疲れ切って嫌になったことが何度もあったが、自分の家族のサポートもありなんとか8月下旬にはほぼ全ての対応を終えることが出来た。まだこれから最後の相続対応が残っているのだが、それは全て税理士にお願いをしているということもあり、ここから先は多少の汗をかく程度で終わるだろう。


また人生のトラブル/イベントというのは重なるらしく、5月には新しい職場に移ったり、子供が塾でトラブルに巻き込まれるということも重なった。そういったゴタゴタが片付いたのが9月の頭であり、ようやく一息ついてブログを再開することができるようになったのがこの三連休になったというわけだ。

とりあえず次のエントリーからは、母の急死から相続までの顛末を記録しておこうと思う。相続というのは大なり小なり面倒があるものだが、対応してくれた司法書士によれば「財産の規模の割には面倒が多い」ケースだったらしいので、記録をしておくことで誰かの役に立つかもしれない。

2024年5月 9日 (木)

(勉強内容備忘録): Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版] 第II編 国際関係の現状分析

4月の半ばからだいぶ時間が経ってしまったが、”第I編 序論と歴史分析"に続いて、ようやく”第II編 国際関係の現状分析”を読み終わることが出来た。この章(編)では、第二次世界大戦以降から現在に至るまでの国際状況を概観しており、理論を学ぶというよりは状況を把握するための記載が多い。自然科学ではない分野においては、現実を解釈するために理論が発展する部分があるので、最新の理論を学ぶためには、まず現状をしっかり把握する必要があるということなのだろう。

この章(編)では大きく5つに分けて、現状が整理されている。

  1. 今日の国際関係
  2. グローバリゼーションの時代
  3. 現代の安全保障
  4. 北東アジアの政治と国際関係
  5. 国際社会における日本の位置付け

ページ数としては80ページ近い内容となるので、自分が気になった点やこれまでの知識がなかった部分を簡単にまとめておこうと思う。北東アジアと日本の位置付けについてはすでにある程度知識がある(北東アジアについては、本書で書かれている内容は必要最小限の理解だと感じた)ため、その部分は特にメモは行わなかった。

Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]: 第Ⅱ編: 国際関係の現状分析


今日の国際関係(第3章)

今日の国際関係を分析するにあたっては、どうしても"9.11"はスタート地点として設定せざるを得ない。9.11の発生により、アメリカ政府は「バランス・オブ・パワー」を掲げるネオコンが政治的な力を握ることになり、アメリカはイラク戦争とアフガンでの戦闘を続けることになった。
オバマ大統領は戦線を縮小しようとしたが、必ずしも彼が望んだ通りにはならなかった。また核軍縮に取り組むことを表明しノーベル平和賞を受賞したが、こちらも自分が望んだほどの進展は得られなかった。

その後のトランプ大統領の誕生により、国際社会は「自国第一の時代」を迎えたということができる。本書が発行された時にはロシアによるウクライナ侵攻がまだ起こっていなかったが、もし第4版が出るのであれば、間違いなくページを割かれることになるだろう。

 

グローバリゼーションの時代(第4章)

本書によればグローバリゼーションとは「世界規模での経済。社会の統合・一体化」を指しており、次の4つの特徴を持つ。

  1. 地域間の交流量の増大
  2. 相互依存の深化
  3. market economy(資本主義)の拡大
  4. ルールや価値観の世界規模での結合

グローバリゼーションという単語を使うとどうしても最近100年ちょっとの出来事と考えてしまうが、国際史的に見ればそのスタートは1492年のコロンブスにその発端をみることが出来る。当時は「情熱と冒険心」「交易と収奪」、そして「キリスト教の布教」が大きなモチベーションだったが、その後もグローバリゼーションは進み続けた。
その動きが20世紀末になって加速したのは、冷戦の終結や規制緩和・貿易自由化などの影響もあるが、やはり技術進化の影響が大きい。特にICTの進化により地球は急速に小さくなった。グローバリゼーションは貧富の拡大といった問題を起こしているが、同時に人類全体を見れば絶対的な貧困者数が少なくなっていることも忘れてはならない。

一方で1999年のWTOシアトル会議でのNGOの活動以来「反グローバリゼーション」の動きが明確になっている。これは新自由主義的グローバリゼーションに対する対抗軸として捉えることが可能であり、グローバリズムに対してローカリズムの重要性を強調することが多い。しかし現実にはグローバリズムとローカリズムは補完的な関係にあり、グローバリズムへの抵抗運動としてよりローカルコミュニティが発展することもある。

このグローバリゼーションの広がりを理論的に分析するにあたっては、新自由主義政策についての理解を深めることが重要になる。新自由主義的政策は、戦後のケインズ主義に対するカウンターとして生まれた考え方であり、ミルトン・フリードマンがその理論的構築に大きな貢献をした。グローバリゼーションはこの新自由主義的な考え方を一つの柱として拡大してきたのであり、グローバリゼーションに対する態度はこの新自由主義的政策に対する態度であるとも言える。

 

現代の安全保障(第5章)

安全保障に関する研究は、過去数十年間にわたって国際関係論の主要なトピックだった。長い間、軍事や外交といった国家の安全に直接関わる分野を「ハイポリティクス」、経済や社会問題を「ローポリティクス」と呼んでいることからも、その位置付けがわかる。

歴史的に見れば、大国間(主にアメリカとソ連)の安全保障は大量報復戦略(massive retaliation)から相互確証破壊(MAD)へと発展し、デタントにより単独での安全保障(国家安全保障)から国際安全保障へと関心が移っていった。また冷戦終結後は、国家ではなく「人間集団の安全保障」とその対象が変化してきている。
また9.11以降は国家だけでなく非国家アクター、つまりテロリストや武装集団などについても考慮をする必要が出てきている。


安全保障の伝統的な議論では、まず自国の安全を守る(補償する)ことにまず着目をする。単純に考えれば、相対する国家、あるいは仮想敵国よりも強力な軍事力をもてば安全が保障されるはずであるが、相手も同様の思考をすれば際限のない軍事拡張が論理的帰結として発生する(安全保障のジレンマ)。そこで複数の国家が同盟を組むことで安全を保障するという、集団安全保障(collective security)の概念が導入された。

また二つの世界大戦を経験したヨーロッパではより地域の安全保障を深化させるために、敵対する同盟同士が戦争を回避しようとする「共通の安全保障(common security)」や、地域に属する国家が協調的に行動する「協調的安全保障(cooperative security)」という概念が導入された。一方でアジアの場合には、そのような地域協力は進んでおらず、台頭する中国と、そこに対抗する日米韓という構図になっている。


最近ではこの国家間の安全保障を取り扱う「伝統的安全保障」に加えて、非軍事領域でトランスナショナルな性質を持つ「非伝統的安全保障」の概念も重要となってきている。これは人間の安全保障とも通じるが、”恐怖”や”欠乏”からの追及を行う概念となる。
この非伝統的安全保障研究の発展に大きく寄与したのがコペンハーゲン学派と呼ばれるグループであり、安全保障を軍事・環境・経済・社会・政治の5つのカテゴリーに分類するという分析の枠組みを提示した。またコペンハーゲン学派は、ある問題が国家/非国家アクターによって安全保障の問題として規定され、合意されることで問題が「安全保障化(securitization)」されるという枠組を提示している。

2024年5月 7日 (火)

Amazonの人事政策と自らの仕事を結びつける「構成の巧さ」: (書評)テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法 (その2)

先日のその1では、本書『テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法』に書いてある”ロビイングの仕事”と、”Amazonにおけるロビイング”について簡単にまとめて紹介をした。後半の今回は、本書に記載してある実際の事例についていくつか紹介をしていこうと思う。

事例紹介とAmazonの人事ポリシーを結びつける

最近では”パーパス経営”といった言葉がすっかり日本でも定着したように、企業が存在する目的やいわゆるMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)といった言葉は日本企業でも普通にあるようになった。ただし日本企業では、実際の現場でこれらの概念が有効活用されている場面というのはほとんどないと思う。

その日本企業に比べれば、こういった考え方は早くから採用していた欧米企業はもう少し現場の判断基準としてパーパスやMVVを活用している。リーダー達の言葉にもよく出てくるし、(少なくとも公式には)昇進の際の基準値の一つになっている会社も多い。とはいえ、数字や結果には日本企業よりもずっと厳しいアメリカ企業ではこういった考え方”だけ”で生きていけるほどは甘くはない。Amazonには友人が何人も勤めており話を聞区限りでは、比較的真面目に運用をしている会社のようだが、それでも現実はマネージャーやリーダー次第といったところだろう。

本書が構成として上手いのは、この時にお題目になりがちな考え方を、Amazonで実際に著者が手がけた仕事とうまく結びつけているところだ。単に事例を紹介するだけだと退屈なものになりそうなところを、Amazonの人事ポリシーである"Amazon Leadership principle"と結びつけることで、それぞれの事例に明確な意味を持たせることに成功している(穿ってみれば、そうやってAmazonの良いところを紹介するという建て付けでないと、事例開示の許可が降りなかったのかもしれない)。

例えばコロナ禍を通じて、すっかり一般的になった「置き配」を働きかける仕事では、AmasonのCustomer obsession(お客様視点の第一優先)とDeliver input(ビジネス結果を生み出すインプットに集中する)に結びつけている。なぜなら「置き配」を実現することが出来れば、顧客はより簡単に荷物を受け取ることが出来ることで、満足度という要素を向上させることが出来るからだ。

ちなみにこの「置き配」の実現、一般市民からすると単に荷物を置いておくかどうかの問題で宅配業者と顧客の関係性だけを気にすればいいのではないか・・と感じてしまうのだが、ロビイストからすると解決しないといけない法律的な問題がちゃんと存在しているらしい。例えばマンションの中で荷物を置くことは”消防法”に抵触する可能性があるし、所轄官庁によっては荷主と輸送事業者をごっちゃにした議論を展開しようとしていたからだ。こういった行政における縦割りから発生する問題をうまく解決するのも、著者のようなロビイストの仕事の一つなのだ。

 

また自分が所属していたIT業界に関連するトピックとしては、金融機関におけるクラウド利用におけるルール作りが興味深かった。今では銀行によっては基幹システムの一部をクラウド化するという事例まで存在しているが、2010年代の初めは金融機関がクラウドを利用するには高いハードルがあった。というのも金融機関は情報セキュリティなどを含めた業務管理について金融庁の監督を受ける立場にあり、金融庁のその監督範囲にはIT統制も含まれているからだ。

本書にも書かれているとおり、それまでの金融業界におけるIT監査というのはオンプレミス(ハードウェアを自前で持つこと)を前提としたものであり、クラウドに対応するルールづくりは出来ていなかった。そのためクラウド事業者の観点からは時代遅れ・・というか、そもそものプロダクトの前提とルールの前提がずれているものが多かったのだ。例えばその最たる例が、本書でも取り上げられている「金融機関によるデータ保管場所の立入検査」だ。それまでは間借りしたデータセンターに自前のハードウェアを置く例が一般的だったので保管場所は明確だったが、クラウドでは保管場所を明確にすることは、クラウド事業者ですらも簡単ではない(文字通りのハードウェアの雲の向こうにデータが保管されているので)。そんな状態で、立入検査を行うことはいたずらにリスクのみを増やす行為であって全く意味がない。

著者の所属しているAmazon = AWSは業界のトップであり、彼らが基準を作ることは業界にとっても、彼らにとっても意味があることだったのは間違いない。ただもし著者の努力がなければ数年間は非現実的なクラウド規制が設定されていた可能性もあるわけで、著者の努力には業界の所属している一人として素晴らしい仕事だったと感じた部分だった(本書で最も感動した部分と言っていい)。


ロビイストが感じる日本の弱点

本書の最後の方では、”外資”の”ロビイスト”である著者が感じる日本の弱点というのがいくつか挙げられている。例えばそれは「企業経営の改革が必要である」といった当たり前のものから、「処方箋規制が染み付いた体質を変える必要がある」といった現場の観点まで様々だ。正直にいえば本書でなくても、あるいは著者でなくても言えることだという気がするだろう。

ただ本書の場合にその言葉がより重く響くのは、著者が20年近い年月を官僚として過ごしてきたという事実があるからだ。自分を含めて転職をする人間というのは、時に過去に所属していた組織のことを悪くいうことがある。「あんなに悪い組織だったから自分が辞めるのは当然なのだ」という感情を自分で持ちたいというわけだ。しかし本書を読んでいれば少なくとも著者はそう言った人間ではないことがわかる。そもそも転職したとはいえそのビジネス(ロビイング)の相手は中央官庁と政治であり、彼らのことを悪くいうのは著者にとって全くメリットがない。

それでも、行政の思考が実際には意味をなしていない「無謬性思考」であるまで言い切るというのは、著者の職業人生の半分への反省と、今後への期待が含まれているように感じられる。自分がやってきた仕事に価値がない、とは思わないだろうが、それをもっと有効にすることができただろうという反省が行間から滲み出てくるのだ。

2024年5月 6日 (月)

Prime Videoで井上-ネリ戦を見た: 武器の少ないネリはどのように井上に勝とうとしたのか

日本では山中戦以来「国民のヒール」の座に収まっているネリが無敗のチャンピオン井上に挑む試合を、Prime Videoでみることが出来た。
1ラウンドでダウンをした後はほぼ完勝と言っていい井上がすごいというのはのは誰もが思うけど、「相対的に武器の少ないネリがどう勝とうとしたのか」って観点でみると、すごくいい試合だった。こういうとアンチネリからは怒られそうだけど、その精神力と「なんとしても井上に勝ちたい」という気持ちが伝わってくる試合だった。

まず第1ラウンドの井上のダウン。あれは解説では“カウンター“と言ってたけど、実際には“肉を切らせて骨を断つ“覚悟がないとできないパンチだった。明らかにネリはあれを狙ってて、ショートアッパーを「前横に頭をずらして」フックを入れようとしていたと思われる。実際にダウンを奪ったわけだし、うまくいけばあれで試合を終わらせることができたわけで、ネリの狙いは外していなかった。

ボクシングではアッパーが来たら、頭を後ろにそらすか、手のひら(あるいは肘)で受け止めることが普通で、頭を前にずらして避けるのはめちゃ怖い。間違ってくらったら自分からパンチを迎えに行った形になってしまい、そこで試合が終わってしまう可能性もあるからだ。ただしそれでパンチに空を切らすことが出来ると、逆に打ち手の方の顔がガラ空きになるので絶好のチャンスになる。確か『はじめの一歩』でも、似たようなシーンがあった気がする。

この第1ラウンドの影響がまだ残っている第2ラウンドの間にネリとしては距離を潰して一気に決めたいところだったが、出会い頭でうまく合わされて今度はネリがダウン。これでネリとしては迂闊に飛び込んでからのショートフックという手が使えなくなってしまった。井上は右のガードを1ラウンドよりも少し上げて慎重に戦いながら、フックの軌道をインプットしていたようにみえた。

そこで第3ラウンド・第4ラウンドはネリは遠目からのフックに切り替える。このフックは日本のボクサーはあまり使わない軌道で飛んでくるのでチャンスはあったのだけど流石の井上には効かない。むしろ正当なワンツーで正面から被弾してしまうことがわかり、やはり中距離だとネリの分が悪い。ちなみに井上は、「拳を縦気味にして下から伸びてくるストレート」という、これまたアマチュアレベルでは習わないパンチで、ガードの隙間を狙ってきてた。普通の筋力だとあの打ち方は力が乗らないんだけど、どういう練習したらあんなパンチ打てるんだろ・・。普通はストレートは打ち下ろすイメージで練習するので、下から伸びてくるパンチを打つには後ろ足の後ろ側の筋肉と腸腰筋が強くないと打てない気がするのだ。

やはり近距離でないと戦えないとわかったネリは、第5ラウンドでは頭から突っ込んで強引に距離を詰めにくる。井上も肩で押し返したりしていて嫌がるそぶりを見せていたので、ネリはロープにうまく詰める場面を狙っていたはずだった。実際にダウンのシーンはネリの狙い通りで、井上がロープを背負った状態で至近距離に持ち込むことに成功しているのだ。
ところがおそらく井上もこれを狙っていて、逆にネリが突っ込むところを引っ掛けるようにしてフックでダウンをとる。これでネリとしては出来ることはもう何も無くなってしまった。ダウンした後に呆然とした顔を一瞬見せたのは、狙ったはずの展開で逆にやられてしまったからだと思う。

このダウンで足に来ていたのはもう画面でもわかったので、後はいつKOで終わるか・・というだけになってしまった。ネリは出来ることを全部やったけど、それでも万能の井上には勝てなかったという感じ。
今回の試合の結果から、戦い方の引き出した井上より少ない選手が井上に勝つには「早いラウンドで一発で決め切る」しかないとわかったので、これからの試合は最初の3ラウンドぐらいはすごくスリリングな展開になりそうな気がする。

2024年5月 5日 (日)

結局は人間関係こそが命になる: (書評)テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法 (その1)

「ロビイスト」という職業が日本で市民権を得たのはここ5年ぐらいのことだと思う。それまでも“渉外担当“とか“公共政策担当“のような名前で部署が存在している会社は多かったが、どちらかというと大っぴらに仕事をするというよりも官庁や行政と繋がってあまりよろしくないことをしているというイメージがあった。我々の世代だと「金融業界のMOF担による大蔵省接待」が大問題になった時代を知っているし。

そんな影に隠れて生きるイメージのある「ロビイスト」、しかもAmazon日本法人に所属していたロビイストの本と言うことで興味を持ったのが本書『テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法』だ。実際に読んでみると実際の仕事がかなり生々しく書いてあるだけでなく、書籍の構成としても非常に上手くできており、紹介せずにはいられなくなった。こういった本は関係者に配慮して曖昧な内容になったり、自分の自慢話になりがちだが、著者の聡明さとバランス感覚でとても面白く仕上がっている。


ロビイストというキャリアと日本の政策立案プロセス

著者によると少なくともAmazonではロビイストになるためには「各国の政策立案プロセスに精通し、いつ、誰に対して、どのような作法で提案をすべきなのかという政策渉外のイロハは他所で十二分に学んできていることが必要不可欠(第三章)」であり、勉強をしっかりしたからといってなれるものではないらしい。
そういう著者も(東工大という理系の大学だが)大学卒業後に、当時の通商産業省(現経済産業省)に入省したキャリア官僚であり、官僚としての20年のキャリアを積んでから、Amazonに日本人一人めのロビイストとして入社している。ちなみに自分も大手外資系メーカーで政策渉外の部長を務めている友人がいるが、その方もキャリア官僚からの転身組だ。

彼によれば、日本の政策立案プロセスは十分な開かれてはおらず、中央官庁における政策検討プロセスや政治家とのコネクション(いわゆる“党側との折衝“)を活かして、政策がオープンになる前に情報提供を行うことが重要らしい。そういった「舞台が上がる前の繋がり」を維持する、あるいは「舞台に上げてもらう」ためには人間関係の構築が重要であり、本書でもロビイングの思考方法の一番最初に「政策立案者から深い信頼を得る\ことが挙げられている。ちなみに本書で挙げられているAmazonのロビイングの思考方法は以下の5つだ。

  1. 政策立案者から深い信頼を得る
  2. 業界をリードする
  3. インフルエンサーのネットワークを形成する
  4. 政府主導のイニシアティブをサポートする
  5. 自らのことを正しく認知してもらう

見ればわかる通り、2以外は人間関係やコミュニケーションに関わる項目であり、ロビイングとは営業活動のように自分と政策を売り込むということがイメージできる。


求められる動的なロビイング

本書で繰り返し出てくる重要な概念として“動的なロビイング“という概念がある。これはこれまでのロビイングと対比して、テック企業のロビイングの特徴として挙げられているもので、その時々のテーマに応じて規制改革や制度整備、そして良好な関係維持のために企業側から積極的に働き華けを行うことが必要であるという意味で「動的」としているらしい。

ちなみに、いわゆる伝統的な日本企業による官庁との繋がりはロビイングとは呼べるものではなく、情報収集にとどまっており、その背景には日本企業は“ルールは変えられない“という思考方法にあるらしい。また外資でも製薬会社などは何年も時間をかけて同じイシューを取り上げるので、音書では“静的なロビイング“としてまとめられている。

 

この部分の著者の指摘、すなわち「日本企業はルールは変えられない」と思考するというのは、アメリカの西海岸にある企業で働いていた自分としても常日頃から感じる部分である。日本企業はある規制が出てきた時に、それを遵守するか、あるいは“遵守していると見せかける“ことに多大な労力を費やすが、ルールそのものへの働きかけを行うことはかなり少ない。

一方で少なくとも西海岸の企業は、ビジネスモデルを構築するにあたって、技術同じくらい法的な側面を重要視する。自分に不利な規制があれば積極的に撤廃へと動くし、グレイな部分は少しでも有利な方に持っていこうとする。これはアメリカでは規制違反に対する懲罰的な罰金が存在したり、大陸法と欧米法における規制の設定の仕方が違うというバックグラウンドもあるが、法律や規制を外的な変数ととるのか、それとも定数と考えるのかの思考の違いがあると感じている。

何よりアメリカでは、ある程度の職位にある人間は契約書の条項を自分で判断することが出来る程度の法律的なリテラシーが求められる。細かいことは法務部に丸投げして「法務部がダメだと言ってるんで・・」と連絡してくるようなことはしない。自分で法的なリスクがどこにあり、どこまではビジネスサイドとして許容したいという意思が明確なのだ。こういったいわば一般的な法的リテラシーの違いというのが、ロビイングという場面における振る舞いにも影響しているのではないだろうか?と感じるのだ。

(長くなったので、次回に続く)

 

2024年4月15日 (月)

(勉強内容備忘録): Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版] 第I編 序論と歴史分析

自分が大学生になった頃はまだインターネットがそれほど普及していなかったこともあり、国際公務員になるにはどうしたら良いか?という情報を手に入れるのは容易ではなかった。今では例えば”法学部に入って国際政治などを学ぶ”とか、”経済学部に入って、そこから経済の専門家になる”みたいなロールモデルを見つけることは難しくないが、当時は周りにそういう大人がいない限りはなかなか情報を得ることが難しかったのだ。

東大の場合、理系に入学した学生がそういった国際公務員に進もうと思った場合の選択肢の一つが教養学部後期の国際関係論コース(通称”国関”)だった。教養学部は文理どちらからも進学が可能だし、名称もずばり「国際関係論」とわかりやすい。当時は東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻という専攻が出来たばかりで、新しい組織特有の熱気もあったように思う。

当時の自分はそのまま工学部(工学系)に進むか、この教養学部の国関に進むか悩み、最終的に「駒場にずっといたくはない」という今となってはどうでもいいような理由で工学部の新設専攻に進んだのだった。その選択自体は全く後悔していないが、国際関係論をちゃんと勉強したいという思いはなんとなく残っており、40代半ばになってアカデミックなことをやり直そうと思った時のターゲットの一つになったのだった。


そこで実際に勉強を始めようと思った時に困ったのが、教科書選びだ。学部2年生の自分は進学先を決める際、「理系は実験や演習を教えてもらう必要があるが、文系科目はちゃんと教科書を読めばなんとかなる」と思っていたのだが(実際に単位が足りなくなって受講した法学部の商法は授業に一回も出なかったが、教科書と判例集+シケプリで優をもぎ取った)、国際関係論のような学際科目の場合には明確な教科書がわかりづらい。数学のように”この領域にはこの定番教科書”のようなものが、門外漢にはわからないのだ。東大のページには参考図書が載っていないし。

そこでとりあえずネットで調べたり、関連する他の大学のページを調べたりしたところ、全体を掴むのに良いと紹介されていたのが「Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]」だ。何せ教科書の良さ/悪さの判断すらつかないので、まずはこの一冊を読んでみて少しでも進んでみることにした。最後には参考図書が豊富に載っているので、それを得るだけでも意味があるだろう。


Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]: 第Ⅰ編: 序論と歴史分析


国際関係論と国際政治学の違い


冒頭ではおそらくよく質問があるのだろう、”国際政治学”と”国際関係論”の違いについて述べられている。こういった「XX学はAだが、YY学はBである」というのはどうしても自分が属している学問をよく見せようというバイアスがかかるので話半分に聞いておくべきだろうと思うのだが、国際関係論の特徴は以下の4つであると本書では定義している。
  • 国以外の多様なステークホルダーを含めて分析する
  • 学際的である
  • Global Issueも検討範囲に加える(人権や環境問題など)
  • 地域研究も含まれる

一方で本書では、「国際政治学は、国家間の政治を研究する社会科学の一分野であり、政治学の延長線上にある学問分野」と定義している。

国際システムの形成と展開


国際関係論というだけあり、国際関係の歴史的な形成と変化は最初に学ぶ必要がある。本書によればまず、国際関係を理解するにあたり基礎となる概念として、国際システム(International System)という概念を提示する。この国際システムは「複数の主権国家による集合体」を示す概念である。

ジョセフ・ナイによれば国際システム(≒ 国際社会)は歴史的に3つの形態が存在していた。
  • 世界帝国システム(world Imperial System)・・・ローマ帝国
  • 封建システム(feudal System)・・・ローマ帝国崩壊後の西側世界と19世紀までの中国を中心とする東アジア
  • 無政府的国際システム(anarchic state system)・・・現在も含む複数の国家によるシステム


歴史分析における仮説

国際関係研究の基本となる、歴史を理論的に分析するための3つの仮説が提示されている。


仮説1: 現代国際システムはウエストファリア体制の延長線上にある
ウエストファリア体制とは、17世紀にヨーロッパで争われた三十年戦争後の新しい国際秩序を指す。この体制では「国際法」や「勢力均衡」といった現代につながる基本的な概念が生まれ、西側の国際システムが生まれた。

仮説2: 近代500年間は覇権国家の交代劇であった
16世紀のスペインから、オランダ、イギリスを経て、20世紀に入ってから現在まではアメリカが覇権国家となっている。一方でそれぞれの時代に挑戦国が存在するが、その国は争いに勝利して次の覇権国家になることはなかった。17世紀のオランダの覇権に挑戦したのはフランスだったが、その次の覇権国家となったのはイギリスだった。

仮説3: 911事件によりポスト冷戦時代の国際システムは終わった
近代国際社会は戦争 → 講和会議 → 新国際秩序 → 秩序の崩壊 → 戦争というサイクルで変化してきており、国際秩序が保たれている間は国際システムが機能していたと言える。それでは、911により、国際秩序は崩壊したと言えるのだろうか?



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2024年4月 2日 (火)

外から読んで面白い官僚の仕事は中ではあまり評価されない: 金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿

日経新聞のコラム「私の履歴書」が人気コンテンツとしての地位をずっと保っているように、功成り名を遂げた人の回顧録は抜群に面白い。この「私の履歴書」は掲載されているのが日経新聞なので基本的にはビジネス界の大物が出てくる場合が多いが、時折政治家や官僚が取り上げられることがある。面白い割合を「打率」とすると政治家は大体が面白く打率8割ぐらい、ビジネスマンは5割、官僚は2割ぐらいだろうか。官僚としてトップに上り詰める人はリスク回避型の人が多いだろうから、どうしても面白い話が出てこないのかもしれない。

本書はそういった”リスク回避型”ではないタイプのキャリア官僚人生を取り上げた一冊だ。元官僚の方が自分で書いた本は自慢話が多く、ジャーナリストが書いている場合もヨイショが過剰な場合が多いが、本書はそういった自己礼賛型からはかなり距離が遠く、読んでいて素直に楽しむことが出来た。巻末にしっかりと参考文献が載っているように、著者がちゃんと二次情報・三次情報に当たっているからだろう。

そしてもう一つは、本書で取材対象となっている佐々木清隆という財務官僚(後半は金融庁)がいわゆるメインロードにはいなかったということが理由としてはある。開成高校 → 東大 → 国一をトップ合格という絵に描いたような学業エリートであるにもかかわらず、彼は大蔵省・財務省の本流を歩まずに、金融庁などの検査畑を一貫して歩いた人なのだ。傍流であるからこそ、その道を極めた人の話は面白い。
彼が長年所属することになる金融庁(1998年〜2000年は金融監督庁)は、自分が就職活動をした2004年は人気官庁の一つだったような記憶がある。内閣府の外局という位置付けとしてはやや低い場所にあったが、まだできたばかりの官庁で業務は面白く、かつ専門性が高いということが人気の要因だったように記憶している。

自分は官庁には全く興味がなかったのでそういった”人気/不人気”には全く無頓着で、「金融庁は何をやるところなんだろう」とぐらいにしか思っていなかったのだが、社会人になって銀行などの金融関係をお客さんに持つようになると、そのパワーの凄さを知ることになった。

本書はその金融庁、そして佐々木清隆が関わった多くの経済事件や大蔵省に関わる出来事が取り上げられている。36年もの間公職についていただけあり、この出来事のリストには大蔵省に対する過剰な接待(いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ」)から始まり、山一証券の破綻、 ライブドア事件、 村上ファンドの問題、新興市場の「箱」企業問題、そして仮想通貨までをカバーしている。自分が経済や政治を理解するようになったのがちょうど山一證券の破綻だったので、ほぼ自分の人生と彼の職業人生が被っていることになるわけだ。

この事件を追っていけばわかるように、金融庁(あるいは金融犯罪)のカバー範囲というのは、本書で言うところの流通市場(セカンダリー・マーケット)から発行市場(調達・株式発行)、そして非伝統的金融領域に広がっていったことがよくわかる。スタートアップの世界に長く身を置いている自分からすると、この流れというのはごく自然なもので、資本市場を守るためには発行企業までカバーするべきというのはむしろ当然にすら思える。そういった意味では、本書は一人の官僚の歴史を残しておくと同時に、今後の金融市場の規制・育成の方向性を示すものでもある。


ちなみに本書では、著者が佐々木清隆を取材すると決めた時に「あの人はやめておいた方がいい」と言われたというエピソードが紹介されている。著者は妬みもあったのだろうと書いているが、おそらくその推測は正しいと思う。何度か言及されているように、こういったタイプの官僚は「面白いアイデアはぶち上げるが、法的な緻密さには弱かったり、ロジ周りに弱い」という共通点があるからだ。

自分もいわゆるキャリア官僚には友達がいるのだが、こういったタイプの周りや下で働くと、それは大変らしい。ある意味でスタートアップの経営者のようなタイプで、遮二無二前に進んで行くので、後ろでゴミ拾いをしていく人が必要になるのだ。しかもこういったタイプは他省庁との細かい折衝や、政治家への説明はあまり上手くないことが多い。馬が合う人にはハマるが、そうでない人から見たら、適当に仕事をして手柄だけを取っていくように見えてしまうのだろう。

そういう意味では、こういったタイプが本当のTOPを取るわけではないと言うのは、組織としては健全なのではないかと思う。 文書も他の類書と同じく、前例踏襲的な官僚に対して批判的な表現がないわけではないが、その筆の勢いは決して強くない。著者も官僚の世界を長く取材する中で、様々な人間が組み合わさって仕事が進んでいくということをよく知っているのだろう。

自分も所属してる組織では、どちらかと言うとこういったゴミを撒き散らす人の尻拭いをすることが多いタイプなので、その苦労と怒りは共有することが出来るような気がする。まあ、 そのような仕事を続けるのが苦痛なので、自分で会社をやったりスタートアップに所属したりするわけで、妬みを感じる人には「大丈夫、あなたのようなタイプが大組織では最後には評価されるんですよ」と教えてあげたい気持ちになる。

 

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