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2024年5月 9日 (木)

(勉強内容備忘録): Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版] 第II編 国際関係の現状分析

4月の半ばからだいぶ時間が経ってしまったが、”第I編 序論と歴史分析"に続いて、ようやく”第II編 国際関係の現状分析”を読み終わることが出来た。この章(編)では、第二次世界大戦以降から現在に至るまでの国際状況を概観しており、理論を学ぶというよりは状況を把握するための記載が多い。自然科学ではない分野においては、現実を解釈するために理論が発展する部分があるので、最新の理論を学ぶためには、まず現状をしっかり把握する必要があるということなのだろう。

この章(編)では大きく5つに分けて、現状が整理されている。

  1. 今日の国際関係
  2. グローバリゼーションの時代
  3. 現代の安全保障
  4. 北東アジアの政治と国際関係
  5. 国際社会における日本の位置付け

ページ数としては80ページ近い内容となるので、自分が気になった点やこれまでの知識がなかった部分を簡単にまとめておこうと思う。北東アジアと日本の位置付けについてはすでにある程度知識がある(北東アジアについては、本書で書かれている内容は必要最小限の理解だと感じた)ため、その部分は特にメモは行わなかった。

Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]: 第Ⅱ編: 国際関係の現状分析


今日の国際関係(第3章)

今日の国際関係を分析するにあたっては、どうしても"9.11"はスタート地点として設定せざるを得ない。9.11の発生により、アメリカ政府は「バランス・オブ・パワー」を掲げるネオコンが政治的な力を握ることになり、アメリカはイラク戦争とアフガンでの戦闘を続けることになった。
オバマ大統領は戦線を縮小しようとしたが、必ずしも彼が望んだ通りにはならなかった。また核軍縮に取り組むことを表明しノーベル平和賞を受賞したが、こちらも自分が望んだほどの進展は得られなかった。

その後のトランプ大統領の誕生により、国際社会は「自国第一の時代」を迎えたということができる。本書が発行された時にはロシアによるウクライナ侵攻がまだ起こっていなかったが、もし第4版が出るのであれば、間違いなくページを割かれることになるだろう。

 

グローバリゼーションの時代(第4章)

本書によればグローバリゼーションとは「世界規模での経済。社会の統合・一体化」を指しており、次の4つの特徴を持つ。

  1. 地域間の交流量の増大
  2. 相互依存の深化
  3. market economy(資本主義)の拡大
  4. ルールや価値観の世界規模での結合

グローバリゼーションという単語を使うとどうしても最近100年ちょっとの出来事と考えてしまうが、国際史的に見ればそのスタートは1492年のコロンブスにその発端をみることが出来る。当時は「情熱と冒険心」「交易と収奪」、そして「キリスト教の布教」が大きなモチベーションだったが、その後もグローバリゼーションは進み続けた。
その動きが20世紀末になって加速したのは、冷戦の終結や規制緩和・貿易自由化などの影響もあるが、やはり技術進化の影響が大きい。特にICTの進化により地球は急速に小さくなった。グローバリゼーションは貧富の拡大といった問題を起こしているが、同時に人類全体を見れば絶対的な貧困者数が少なくなっていることも忘れてはならない。

一方で1999年のWTOシアトル会議でのNGOの活動以来「反グローバリゼーション」の動きが明確になっている。これは新自由主義的グローバリゼーションに対する対抗軸として捉えることが可能であり、グローバリズムに対してローカリズムの重要性を強調することが多い。しかし現実にはグローバリズムとローカリズムは補完的な関係にあり、グローバリズムへの抵抗運動としてよりローカルコミュニティが発展することもある。

このグローバリゼーションの広がりを理論的に分析するにあたっては、新自由主義政策についての理解を深めることが重要になる。新自由主義的政策は、戦後のケインズ主義に対するカウンターとして生まれた考え方であり、ミルトン・フリードマンがその理論的構築に大きな貢献をした。グローバリゼーションはこの新自由主義的な考え方を一つの柱として拡大してきたのであり、グローバリゼーションに対する態度はこの新自由主義的政策に対する態度であるとも言える。

 

現代の安全保障(第5章)

安全保障に関する研究は、過去数十年間にわたって国際関係論の主要なトピックだった。長い間、軍事や外交といった国家の安全に直接関わる分野を「ハイポリティクス」、経済や社会問題を「ローポリティクス」と呼んでいることからも、その位置付けがわかる。

歴史的に見れば、大国間(主にアメリカとソ連)の安全保障は大量報復戦略(massive retaliation)から相互確証破壊(MAD)へと発展し、デタントにより単独での安全保障(国家安全保障)から国際安全保障へと関心が移っていった。また冷戦終結後は、国家ではなく「人間集団の安全保障」とその対象が変化してきている。
また9.11以降は国家だけでなく非国家アクター、つまりテロリストや武装集団などについても考慮をする必要が出てきている。


安全保障の伝統的な議論では、まず自国の安全を守る(補償する)ことにまず着目をする。単純に考えれば、相対する国家、あるいは仮想敵国よりも強力な軍事力をもてば安全が保障されるはずであるが、相手も同様の思考をすれば際限のない軍事拡張が論理的帰結として発生する(安全保障のジレンマ)。そこで複数の国家が同盟を組むことで安全を保障するという、集団安全保障(collective security)の概念が導入された。

また二つの世界大戦を経験したヨーロッパではより地域の安全保障を深化させるために、敵対する同盟同士が戦争を回避しようとする「共通の安全保障(common security)」や、地域に属する国家が協調的に行動する「協調的安全保障(cooperative security)」という概念が導入された。一方でアジアの場合には、そのような地域協力は進んでおらず、台頭する中国と、そこに対抗する日米韓という構図になっている。


最近ではこの国家間の安全保障を取り扱う「伝統的安全保障」に加えて、非軍事領域でトランスナショナルな性質を持つ「非伝統的安全保障」の概念も重要となってきている。これは人間の安全保障とも通じるが、”恐怖”や”欠乏”からの追及を行う概念となる。
この非伝統的安全保障研究の発展に大きく寄与したのがコペンハーゲン学派と呼ばれるグループであり、安全保障を軍事・環境・経済・社会・政治の5つのカテゴリーに分類するという分析の枠組みを提示した。またコペンハーゲン学派は、ある問題が国家/非国家アクターによって安全保障の問題として規定され、合意されることで問題が「安全保障化(securitization)」されるという枠組を提示している。

2024年5月 7日 (火)

Amazonの人事政策と自らの仕事を結びつける「構成の巧さ」: (書評)テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法 (その2)

先日のその1では、本書『テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法』に書いてある”ロビイングの仕事”と、”Amazonにおけるロビイング”について簡単にまとめて紹介をした。後半の今回は、本書に記載してある実際の事例についていくつか紹介をしていこうと思う。

事例紹介とAmazonの人事ポリシーを結びつける

最近では”パーパス経営”といった言葉がすっかり日本でも定着したように、企業が存在する目的やいわゆるMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)といった言葉は日本企業でも普通にあるようになった。ただし日本企業では、実際の現場でこれらの概念が有効活用されている場面というのはほとんどないと思う。

その日本企業に比べれば、こういった考え方は早くから採用していた欧米企業はもう少し現場の判断基準としてパーパスやMVVを活用している。リーダー達の言葉にもよく出てくるし、(少なくとも公式には)昇進の際の基準値の一つになっている会社も多い。とはいえ、数字や結果には日本企業よりもずっと厳しいアメリカ企業ではこういった考え方”だけ”で生きていけるほどは甘くはない。Amazonには友人が何人も勤めており話を聞区限りでは、比較的真面目に運用をしている会社のようだが、それでも現実はマネージャーやリーダー次第といったところだろう。

本書が構成として上手いのは、この時にお題目になりがちな考え方を、Amazonで実際に著者が手がけた仕事とうまく結びつけているところだ。単に事例を紹介するだけだと退屈なものになりそうなところを、Amazonの人事ポリシーである"Amazon Leadership principle"と結びつけることで、それぞれの事例に明確な意味を持たせることに成功している(穿ってみれば、そうやってAmazonの良いところを紹介するという建て付けでないと、事例開示の許可が降りなかったのかもしれない)。

例えばコロナ禍を通じて、すっかり一般的になった「置き配」を働きかける仕事では、AmasonのCustomer obsession(お客様視点の第一優先)とDeliver input(ビジネス結果を生み出すインプットに集中する)に結びつけている。なぜなら「置き配」を実現することが出来れば、顧客はより簡単に荷物を受け取ることが出来ることで、満足度という要素を向上させることが出来るからだ。

ちなみにこの「置き配」の実現、一般市民からすると単に荷物を置いておくかどうかの問題で宅配業者と顧客の関係性だけを気にすればいいのではないか・・と感じてしまうのだが、ロビイストからすると解決しないといけない法律的な問題がちゃんと存在しているらしい。例えばマンションの中で荷物を置くことは”消防法”に抵触する可能性があるし、所轄官庁によっては荷主と輸送事業者をごっちゃにした議論を展開しようとしていたからだ。こういった行政における縦割りから発生する問題をうまく解決するのも、著者のようなロビイストの仕事の一つなのだ。

 

また自分が所属していたIT業界に関連するトピックとしては、金融機関におけるクラウド利用におけるルール作りが興味深かった。今では銀行によっては基幹システムの一部をクラウド化するという事例まで存在しているが、2010年代の初めは金融機関がクラウドを利用するには高いハードルがあった。というのも金融機関は情報セキュリティなどを含めた業務管理について金融庁の監督を受ける立場にあり、金融庁のその監督範囲にはIT統制も含まれているからだ。

本書にも書かれているとおり、それまでの金融業界におけるIT監査というのはオンプレミス(ハードウェアを自前で持つこと)を前提としたものであり、クラウドに対応するルールづくりは出来ていなかった。そのためクラウド事業者の観点からは時代遅れ・・というか、そもそものプロダクトの前提とルールの前提がずれているものが多かったのだ。例えばその最たる例が、本書でも取り上げられている「金融機関によるデータ保管場所の立入検査」だ。それまでは間借りしたデータセンターに自前のハードウェアを置く例が一般的だったので保管場所は明確だったが、クラウドでは保管場所を明確にすることは、クラウド事業者ですらも簡単ではない(文字通りのハードウェアの雲の向こうにデータが保管されているので)。そんな状態で、立入検査を行うことはいたずらにリスクのみを増やす行為であって全く意味がない。

著者の所属しているAmazon = AWSは業界のトップであり、彼らが基準を作ることは業界にとっても、彼らにとっても意味があることだったのは間違いない。ただもし著者の努力がなければ数年間は非現実的なクラウド規制が設定されていた可能性もあるわけで、著者の努力には業界の所属している一人として素晴らしい仕事だったと感じた部分だった(本書で最も感動した部分と言っていい)。


ロビイストが感じる日本の弱点

本書の最後の方では、”外資”の”ロビイスト”である著者が感じる日本の弱点というのがいくつか挙げられている。例えばそれは「企業経営の改革が必要である」といった当たり前のものから、「処方箋規制が染み付いた体質を変える必要がある」といった現場の観点まで様々だ。正直にいえば本書でなくても、あるいは著者でなくても言えることだという気がするだろう。

ただ本書の場合にその言葉がより重く響くのは、著者が20年近い年月を官僚として過ごしてきたという事実があるからだ。自分を含めて転職をする人間というのは、時に過去に所属していた組織のことを悪くいうことがある。「あんなに悪い組織だったから自分が辞めるのは当然なのだ」という感情を自分で持ちたいというわけだ。しかし本書を読んでいれば少なくとも著者はそう言った人間ではないことがわかる。そもそも転職したとはいえそのビジネス(ロビイング)の相手は中央官庁と政治であり、彼らのことを悪くいうのは著者にとって全くメリットがない。

それでも、行政の思考が実際には意味をなしていない「無謬性思考」であるまで言い切るというのは、著者の職業人生の半分への反省と、今後への期待が含まれているように感じられる。自分がやってきた仕事に価値がない、とは思わないだろうが、それをもっと有効にすることができただろうという反省が行間から滲み出てくるのだ。

2024年5月 6日 (月)

Prime Videoで井上-ネリ戦を見た: 武器の少ないネリはどのように井上に勝とうとしたのか

日本では山中戦以来「国民のヒール」の座に収まっているネリが無敗のチャンピオン井上に挑む試合を、Prime Videoでみることが出来た。
1ラウンドでダウンをした後はほぼ完勝と言っていい井上がすごいというのはのは誰もが思うけど、「相対的に武器の少ないネリがどう勝とうとしたのか」って観点でみると、すごくいい試合だった。こういうとアンチネリからは怒られそうだけど、その精神力と「なんとしても井上に勝ちたい」という気持ちが伝わってくる試合だった。

まず第1ラウンドの井上のダウン。あれは解説では“カウンター“と言ってたけど、実際には“肉を切らせて骨を断つ“覚悟がないとできないパンチだった。明らかにネリはあれを狙ってて、ショートアッパーを「前横に頭をずらして」フックを入れようとしていたと思われる。実際にダウンを奪ったわけだし、うまくいけばあれで試合を終わらせることができたわけで、ネリの狙いは外していなかった。

ボクシングではアッパーが来たら、頭を後ろにそらすか、手のひら(あるいは肘)で受け止めることが普通で、頭を前にずらして避けるのはめちゃ怖い。間違ってくらったら自分からパンチを迎えに行った形になってしまい、そこで試合が終わってしまう可能性もあるからだ。ただしそれでパンチに空を切らすことが出来ると、逆に打ち手の方の顔がガラ空きになるので絶好のチャンスになる。確か『はじめの一歩』でも、似たようなシーンがあった気がする。

この第1ラウンドの影響がまだ残っている第2ラウンドの間にネリとしては距離を潰して一気に決めたいところだったが、出会い頭でうまく合わされて今度はネリがダウン。これでネリとしては迂闊に飛び込んでからのショートフックという手が使えなくなってしまった。井上は右のガードを1ラウンドよりも少し上げて慎重に戦いながら、フックの軌道をインプットしていたようにみえた。

そこで第3ラウンド・第4ラウンドはネリは遠目からのフックに切り替える。このフックは日本のボクサーはあまり使わない軌道で飛んでくるのでチャンスはあったのだけど流石の井上には効かない。むしろ正当なワンツーで正面から被弾してしまうことがわかり、やはり中距離だとネリの分が悪い。ちなみに井上は、「拳を縦気味にして下から伸びてくるストレート」という、これまたアマチュアレベルでは習わないパンチで、ガードの隙間を狙ってきてた。普通の筋力だとあの打ち方は力が乗らないんだけど、どういう練習したらあんなパンチ打てるんだろ・・。普通はストレートは打ち下ろすイメージで練習するので、下から伸びてくるパンチを打つには後ろ足の後ろ側の筋肉と腸腰筋が強くないと打てない気がするのだ。

やはり近距離でないと戦えないとわかったネリは、第5ラウンドでは頭から突っ込んで強引に距離を詰めにくる。井上も肩で押し返したりしていて嫌がるそぶりを見せていたので、ネリはロープにうまく詰める場面を狙っていたはずだった。実際にダウンのシーンはネリの狙い通りで、井上がロープを背負った状態で至近距離に持ち込むことに成功しているのだ。
ところがおそらく井上もこれを狙っていて、逆にネリが突っ込むところを引っ掛けるようにしてフックでダウンをとる。これでネリとしては出来ることはもう何も無くなってしまった。ダウンした後に呆然とした顔を一瞬見せたのは、狙ったはずの展開で逆にやられてしまったからだと思う。

このダウンで足に来ていたのはもう画面でもわかったので、後はいつKOで終わるか・・というだけになってしまった。ネリは出来ることを全部やったけど、それでも万能の井上には勝てなかったという感じ。
今回の試合の結果から、戦い方の引き出した井上より少ない選手が井上に勝つには「早いラウンドで一発で決め切る」しかないとわかったので、これからの試合は最初の3ラウンドぐらいはすごくスリリングな展開になりそうな気がする。

2024年5月 5日 (日)

結局は人間関係こそが命になる: (書評)テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法 (その1)

「ロビイスト」という職業が日本で市民権を得たのはここ5年ぐらいのことだと思う。それまでも“渉外担当“とか“公共政策担当“のような名前で部署が存在している会社は多かったが、どちらかというと大っぴらに仕事をするというよりも官庁や行政と繋がってあまりよろしくないことをしているというイメージがあった。我々の世代だと「金融業界のMOF担による大蔵省接待」が大問題になった時代を知っているし。

そんな影に隠れて生きるイメージのある「ロビイスト」、しかもAmazon日本法人に所属していたロビイストの本と言うことで興味を持ったのが本書『テックラッシュ戦記 Amazonロビイストが日本を動かした方法』だ。実際に読んでみると実際の仕事がかなり生々しく書いてあるだけでなく、書籍の構成としても非常に上手くできており、紹介せずにはいられなくなった。こういった本は関係者に配慮して曖昧な内容になったり、自分の自慢話になりがちだが、著者の聡明さとバランス感覚でとても面白く仕上がっている。


ロビイストというキャリアと日本の政策立案プロセス

著者によると少なくともAmazonではロビイストになるためには「各国の政策立案プロセスに精通し、いつ、誰に対して、どのような作法で提案をすべきなのかという政策渉外のイロハは他所で十二分に学んできていることが必要不可欠(第三章)」であり、勉強をしっかりしたからといってなれるものではないらしい。
そういう著者も(東工大という理系の大学だが)大学卒業後に、当時の通商産業省(現経済産業省)に入省したキャリア官僚であり、官僚としての20年のキャリアを積んでから、Amazonに日本人一人めのロビイストとして入社している。ちなみに自分も大手外資系メーカーで政策渉外の部長を務めている友人がいるが、その方もキャリア官僚からの転身組だ。

彼によれば、日本の政策立案プロセスは十分な開かれてはおらず、中央官庁における政策検討プロセスや政治家とのコネクション(いわゆる“党側との折衝“)を活かして、政策がオープンになる前に情報提供を行うことが重要らしい。そういった「舞台が上がる前の繋がり」を維持する、あるいは「舞台に上げてもらう」ためには人間関係の構築が重要であり、本書でもロビイングの思考方法の一番最初に「政策立案者から深い信頼を得る\ことが挙げられている。ちなみに本書で挙げられているAmazonのロビイングの思考方法は以下の5つだ。

  1. 政策立案者から深い信頼を得る
  2. 業界をリードする
  3. インフルエンサーのネットワークを形成する
  4. 政府主導のイニシアティブをサポートする
  5. 自らのことを正しく認知してもらう

見ればわかる通り、2以外は人間関係やコミュニケーションに関わる項目であり、ロビイングとは営業活動のように自分と政策を売り込むということがイメージできる。


求められる動的なロビイング

本書で繰り返し出てくる重要な概念として“動的なロビイング“という概念がある。これはこれまでのロビイングと対比して、テック企業のロビイングの特徴として挙げられているもので、その時々のテーマに応じて規制改革や制度整備、そして良好な関係維持のために企業側から積極的に働き華けを行うことが必要であるという意味で「動的」としているらしい。

ちなみに、いわゆる伝統的な日本企業による官庁との繋がりはロビイングとは呼べるものではなく、情報収集にとどまっており、その背景には日本企業は“ルールは変えられない“という思考方法にあるらしい。また外資でも製薬会社などは何年も時間をかけて同じイシューを取り上げるので、音書では“静的なロビイング“としてまとめられている。

 

この部分の著者の指摘、すなわち「日本企業はルールは変えられない」と思考するというのは、アメリカの西海岸にある企業で働いていた自分としても常日頃から感じる部分である。日本企業はある規制が出てきた時に、それを遵守するか、あるいは“遵守していると見せかける“ことに多大な労力を費やすが、ルールそのものへの働きかけを行うことはかなり少ない。

一方で少なくとも西海岸の企業は、ビジネスモデルを構築するにあたって、技術同じくらい法的な側面を重要視する。自分に不利な規制があれば積極的に撤廃へと動くし、グレイな部分は少しでも有利な方に持っていこうとする。これはアメリカでは規制違反に対する懲罰的な罰金が存在したり、大陸法と欧米法における規制の設定の仕方が違うというバックグラウンドもあるが、法律や規制を外的な変数ととるのか、それとも定数と考えるのかの思考の違いがあると感じている。

何よりアメリカでは、ある程度の職位にある人間は契約書の条項を自分で判断することが出来る程度の法律的なリテラシーが求められる。細かいことは法務部に丸投げして「法務部がダメだと言ってるんで・・」と連絡してくるようなことはしない。自分で法的なリスクがどこにあり、どこまではビジネスサイドとして許容したいという意思が明確なのだ。こういったいわば一般的な法的リテラシーの違いというのが、ロビイングという場面における振る舞いにも影響しているのではないだろうか?と感じるのだ。

(長くなったので、次回に続く)

 

2024年4月15日 (月)

(勉強内容備忘録): Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版] 第I編 序論と歴史分析

自分が大学生になった頃はまだインターネットがそれほど普及していなかったこともあり、国際公務員になるにはどうしたら良いか?という情報を手に入れるのは容易ではなかった。今では例えば”法学部に入って国際政治などを学ぶ”とか、”経済学部に入って、そこから経済の専門家になる”みたいなロールモデルを見つけることは難しくないが、当時は周りにそういう大人がいない限りはなかなか情報を得ることが難しかったのだ。

東大の場合、理系に入学した学生がそういった国際公務員に進もうと思った場合の選択肢の一つが教養学部後期の国際関係論コース(通称”国関”)だった。教養学部は文理どちらからも進学が可能だし、名称もずばり「国際関係論」とわかりやすい。当時は東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻という専攻が出来たばかりで、新しい組織特有の熱気もあったように思う。

当時の自分はそのまま工学部(工学系)に進むか、この教養学部の国関に進むか悩み、最終的に「駒場にずっといたくはない」という今となってはどうでもいいような理由で工学部の新設専攻に進んだのだった。その選択自体は全く後悔していないが、国際関係論をちゃんと勉強したいという思いはなんとなく残っており、40代半ばになってアカデミックなことをやり直そうと思った時のターゲットの一つになったのだった。


そこで実際に勉強を始めようと思った時に困ったのが、教科書選びだ。学部2年生の自分は進学先を決める際、「理系は実験や演習を教えてもらう必要があるが、文系科目はちゃんと教科書を読めばなんとかなる」と思っていたのだが(実際に単位が足りなくなって受講した法学部の商法は授業に一回も出なかったが、教科書と判例集+シケプリで優をもぎ取った)、国際関係論のような学際科目の場合には明確な教科書がわかりづらい。数学のように”この領域にはこの定番教科書”のようなものが、門外漢にはわからないのだ。東大のページには参考図書が載っていないし。

そこでとりあえずネットで調べたり、関連する他の大学のページを調べたりしたところ、全体を掴むのに良いと紹介されていたのが「Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]」だ。何せ教科書の良さ/悪さの判断すらつかないので、まずはこの一冊を読んでみて少しでも進んでみることにした。最後には参考図書が豊富に載っているので、それを得るだけでも意味があるだろう。


Next 教科書シリーズ 国際関係論[第3版]: 第Ⅰ編: 序論と歴史分析


国際関係論と国際政治学の違い


冒頭ではおそらくよく質問があるのだろう、”国際政治学”と”国際関係論”の違いについて述べられている。こういった「XX学はAだが、YY学はBである」というのはどうしても自分が属している学問をよく見せようというバイアスがかかるので話半分に聞いておくべきだろうと思うのだが、国際関係論の特徴は以下の4つであると本書では定義している。
  • 国以外の多様なステークホルダーを含めて分析する
  • 学際的である
  • Global Issueも検討範囲に加える(人権や環境問題など)
  • 地域研究も含まれる

一方で本書では、「国際政治学は、国家間の政治を研究する社会科学の一分野であり、政治学の延長線上にある学問分野」と定義している。

国際システムの形成と展開


国際関係論というだけあり、国際関係の歴史的な形成と変化は最初に学ぶ必要がある。本書によればまず、国際関係を理解するにあたり基礎となる概念として、国際システム(International System)という概念を提示する。この国際システムは「複数の主権国家による集合体」を示す概念である。

ジョセフ・ナイによれば国際システム(≒ 国際社会)は歴史的に3つの形態が存在していた。
  • 世界帝国システム(world Imperial System)・・・ローマ帝国
  • 封建システム(feudal System)・・・ローマ帝国崩壊後の西側世界と19世紀までの中国を中心とする東アジア
  • 無政府的国際システム(anarchic state system)・・・現在も含む複数の国家によるシステム


歴史分析における仮説

国際関係研究の基本となる、歴史を理論的に分析するための3つの仮説が提示されている。


仮説1: 現代国際システムはウエストファリア体制の延長線上にある
ウエストファリア体制とは、17世紀にヨーロッパで争われた三十年戦争後の新しい国際秩序を指す。この体制では「国際法」や「勢力均衡」といった現代につながる基本的な概念が生まれ、西側の国際システムが生まれた。

仮説2: 近代500年間は覇権国家の交代劇であった
16世紀のスペインから、オランダ、イギリスを経て、20世紀に入ってから現在まではアメリカが覇権国家となっている。一方でそれぞれの時代に挑戦国が存在するが、その国は争いに勝利して次の覇権国家になることはなかった。17世紀のオランダの覇権に挑戦したのはフランスだったが、その次の覇権国家となったのはイギリスだった。

仮説3: 911事件によりポスト冷戦時代の国際システムは終わった
近代国際社会は戦争 → 講和会議 → 新国際秩序 → 秩序の崩壊 → 戦争というサイクルで変化してきており、国際秩序が保たれている間は国際システムが機能していたと言える。それでは、911により、国際秩序は崩壊したと言えるのだろうか?



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2024年4月 2日 (火)

外から読んで面白い官僚の仕事は中ではあまり評価されない: 金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿

日経新聞のコラム「私の履歴書」が人気コンテンツとしての地位をずっと保っているように、功成り名を遂げた人の回顧録は抜群に面白い。この「私の履歴書」は掲載されているのが日経新聞なので基本的にはビジネス界の大物が出てくる場合が多いが、時折政治家や官僚が取り上げられることがある。面白い割合を「打率」とすると政治家は大体が面白く打率8割ぐらい、ビジネスマンは5割、官僚は2割ぐらいだろうか。官僚としてトップに上り詰める人はリスク回避型の人が多いだろうから、どうしても面白い話が出てこないのかもしれない。

本書はそういった”リスク回避型”ではないタイプのキャリア官僚人生を取り上げた一冊だ。元官僚の方が自分で書いた本は自慢話が多く、ジャーナリストが書いている場合もヨイショが過剰な場合が多いが、本書はそういった自己礼賛型からはかなり距離が遠く、読んでいて素直に楽しむことが出来た。巻末にしっかりと参考文献が載っているように、著者がちゃんと二次情報・三次情報に当たっているからだろう。

そしてもう一つは、本書で取材対象となっている佐々木清隆という財務官僚(後半は金融庁)がいわゆるメインロードにはいなかったということが理由としてはある。開成高校 → 東大 → 国一をトップ合格という絵に描いたような学業エリートであるにもかかわらず、彼は大蔵省・財務省の本流を歩まずに、金融庁などの検査畑を一貫して歩いた人なのだ。傍流であるからこそ、その道を極めた人の話は面白い。
彼が長年所属することになる金融庁(1998年〜2000年は金融監督庁)は、自分が就職活動をした2004年は人気官庁の一つだったような記憶がある。内閣府の外局という位置付けとしてはやや低い場所にあったが、まだできたばかりの官庁で業務は面白く、かつ専門性が高いということが人気の要因だったように記憶している。

自分は官庁には全く興味がなかったのでそういった”人気/不人気”には全く無頓着で、「金融庁は何をやるところなんだろう」とぐらいにしか思っていなかったのだが、社会人になって銀行などの金融関係をお客さんに持つようになると、そのパワーの凄さを知ることになった。

本書はその金融庁、そして佐々木清隆が関わった多くの経済事件や大蔵省に関わる出来事が取り上げられている。36年もの間公職についていただけあり、この出来事のリストには大蔵省に対する過剰な接待(いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ」)から始まり、山一証券の破綻、 ライブドア事件、 村上ファンドの問題、新興市場の「箱」企業問題、そして仮想通貨までをカバーしている。自分が経済や政治を理解するようになったのがちょうど山一證券の破綻だったので、ほぼ自分の人生と彼の職業人生が被っていることになるわけだ。

この事件を追っていけばわかるように、金融庁(あるいは金融犯罪)のカバー範囲というのは、本書で言うところの流通市場(セカンダリー・マーケット)から発行市場(調達・株式発行)、そして非伝統的金融領域に広がっていったことがよくわかる。スタートアップの世界に長く身を置いている自分からすると、この流れというのはごく自然なもので、資本市場を守るためには発行企業までカバーするべきというのはむしろ当然にすら思える。そういった意味では、本書は一人の官僚の歴史を残しておくと同時に、今後の金融市場の規制・育成の方向性を示すものでもある。


ちなみに本書では、著者が佐々木清隆を取材すると決めた時に「あの人はやめておいた方がいい」と言われたというエピソードが紹介されている。著者は妬みもあったのだろうと書いているが、おそらくその推測は正しいと思う。何度か言及されているように、こういったタイプの官僚は「面白いアイデアはぶち上げるが、法的な緻密さには弱かったり、ロジ周りに弱い」という共通点があるからだ。

自分もいわゆるキャリア官僚には友達がいるのだが、こういったタイプの周りや下で働くと、それは大変らしい。ある意味でスタートアップの経営者のようなタイプで、遮二無二前に進んで行くので、後ろでゴミ拾いをしていく人が必要になるのだ。しかもこういったタイプは他省庁との細かい折衝や、政治家への説明はあまり上手くないことが多い。馬が合う人にはハマるが、そうでない人から見たら、適当に仕事をして手柄だけを取っていくように見えてしまうのだろう。

そういう意味では、こういったタイプが本当のTOPを取るわけではないと言うのは、組織としては健全なのではないかと思う。 文書も他の類書と同じく、前例踏襲的な官僚に対して批判的な表現がないわけではないが、その筆の勢いは決して強くない。著者も官僚の世界を長く取材する中で、様々な人間が組み合わさって仕事が進んでいくということをよく知っているのだろう。

自分も所属してる組織では、どちらかと言うとこういったゴミを撒き散らす人の尻拭いをすることが多いタイプなので、その苦労と怒りは共有することが出来るような気がする。まあ、 そのような仕事を続けるのが苦痛なので、自分で会社をやったりスタートアップに所属したりするわけで、妬みを感じる人には「大丈夫、あなたのようなタイプが大組織では最後には評価されるんですよ」と教えてあげたい気持ちになる。

 

2024年3月30日 (土)

コロナ禍を学習の機会とするために: 『1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録』

先日mRNAワクチン開発に関するドキュメンタリーを読んだから・・というわけではないが、日本におけるコロナ対策の先頭に立った尾身先生の本を読んでみた。我々一般人はワクチンが開発された段階でなんとなくコロナ禍は終わってしまった気がしていたが、対策に日々奮闘されていた方にとってはそれはまだ道半ばだったということが”1100日”というタイトルを読むとよくわかる。</ br> </ br> ちょうど家族の都合で病院に行った時にもまだ厳戒態勢は続いていて、コロナはまだ現在進行形の危機なんだなと感じたこともあり、あっという間に読み終わってしまった。以下は読んでいて気がついたメモから起こした備忘録になる。

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会議が多すぎて一般人にはよくわからない


自分はおそらく一般の人よりはニュースを多く見ているだろうし、行政に関する知識を持っていると自負している。その自分でも本書を読むまでコロナ関連でこれほど多くの会議が設定され、並行的に動いていることは把握できていなかった。参加されている有識者の方は「この会議は何のためにあるのか」ということを理解されてアジェンダを設定されていたのだと思うが、この複雑な会議体を初見で理解するのはほぼ不可能に近い。

本書では社会(=一般の人々)とのコミュニケーションについて悩むシーンが繰り返し出てくるが、この体制図を見ると、そもそもの体制から理解をするのが難しいと感じずにはいられなかった。それぞれの会議には根拠となる法律があるので仕方がないが、名称も含めて区別をするのが難しすぎる。一時、「コロナを2類とするか、5類とするか」で単純化された議論があったが、一般の人にとってはあれぐらい単純化してくれないとわからないのではないだろうか。


「ハンマー&ダンス」は難しかった


本書ではコロナ禍後期の対策の基本方針として「ハンマー&ダンス」という戦略を取ったということが繰り返し書かれている。 この「ハンマー&ダンス」と言うのは社会全体にコロナ対策疲れが広がってきた際に、基本的には対策を緩める(ダンスを許可する)一方で、 クラスターが発生する、あるいは医療逼迫の可能性が高くなる場合には対策を厳しくする(ハンマーを振るう)という戦略のことをいう。

この「ハンマー&ダンス」という戦略は理論的には良いと思うのだが、一般市民の観点からはあまり機能していなかったように思う。 まずこの言葉そのものを知っていると言う人間が少ないだろう。
日本独自の対策であり、やがて世界に広がった”三密”はコロナ禍初期に策定された戦略ということもあり、一般市民にも広く浸透していた。 しかしワクチンがある程度広まり、社会生活が元に戻りつつあった段階でのこの「ハンマー&ダンス」を意識して行動した人がどれほどいたかというと、あまり実例を見つけるのは難しいのではないだろうか。実際に自分もこの戦略を意識して行動したとは言い難い。

また現実的にも、いきなりハンマーを振られても対応できないと言うのはあったと思う。明日から、あるいは来週から行動制限してください・・と言われても、日常生活のサイクルを変えられるのは、それこそリモートワークが完全に可能な職種ぐらいではないだろうか。 日常生活を取り戻したいと言う社会的経済的な圧力と、コロナ対策を両立させる方法として立案された戦略だったと思うのだが、現実には適用が難しかった戦略だったと判断している。


情報の取り扱いや意思決定が軽い


本書を読むと、特にコロナ禍の後半では政府の情報の取り扱いや意思決定が非常に軽かったのが目立ってくる。 日本ではこれまでも、そして現在も日々当たり前のように事前リークが行われているが、政治や行政では既成事実を作って物事を進めると言うのが1つの様式になってしまっているように見える。

また実際には専門家に相談していないにもかかわらず、専門的な知識から決定したと言うのは、厳密には嘘のわけで、この辺もわが国の政治における言葉の軽さが如実に現れていると感じた。
本書が書かれた理由の一つでもあり、専門家の奮闘を支える原動力の一つとなっていたが「対策は最終的には歴史が判断する」という価値観だ。言葉が軽い、あるいは情報の取り扱いが軽いという人の価値観はいわばその対局にあるわけで、究極的には「今を生きる」政治家や官僚と、「歴史の一部である」専門家たちの価値観と違いがそこにはあったように思う。もちろん個人的には、自分は後者にシンパシーを感じているのは言うまでも無い。


医者も職業の一つであるのに、我々は無理をさせすぎたのではないだろうか


本書に書かれている内容の中で、一般市民がコロナ禍において理解できていなかったと思われることの一つが、多くの対策が現場の関係者の努力によって支えられており、彼らも「一人の人間」ということだ。もちろんそのこと自体はメディアでも繰り返し報道されたし、特にコロナ禍当初は多くの感謝の声が上がったように、多くの人が意識していたことだと思う。

しかし時間が経つにつれて、本書でも書かれているように医療関係者の頑張りへの理解というのは薄まっていった。そしてその傾向は、実は医療関係者の中でもあったようなのだ。それがわかるのが、JCHO傘下にある病院がコロナ病床を拡充した際に多くの医者・看護師が辞めてしまい、そのことに院長が「こんなに辞めてしまうとは思わなかった」と驚くシーンで、自分が本書を読んでいて一番驚いたのがまさにこのシーンだった。

当たり前だが医療関係者(我々から見るとお医者様だが・・)も自分のキャリアや生活を守る権利がある。医療関係者全てがコロナ(感染症)を専門にしたいというわけではないだろうし、 自分の家族を犠牲にしてまで医療に関わりたいと思う人ばかりではない。そういった当たり前の事実、医療関係者も市民であるということを”見ないふり”していたというのが、コロナ対策の一面の真実であるということに改めて気付かされた。


専門家は守られなければならない


上のテーマと関連して、本書では専門家たちが一般の人たちから脅迫を受けたことが何回か触れられている。 このこと自体はSNSで言及されることが多かったのでよく知られた事実だが、本書を見ると専門家にとっても大きなストレスになったことがよくわかる。

専門家が社会から敵視され、あるいは脅迫の対象となったのは、本書でははっきりとは言い切っていないが間違いなく政治と行政の責任だ。 本書で繰り返し述べられているように、専門家はその専門的な知識を持ってアドバイスを行う、あるいは提言を行うことが仕事であって、実際の決断を行うのは彼らの仕事ではない。この線引きは、彼らが仕事をする、あるいは政策を決定し実行する上での大前提であり、そのような前提を壊してしまった政治や行政、そしてメディアの責任は重い。

心配なのは、すでに74歳になる尾身先生の世代であれば このような脅迫にも負けず仕事を完遂してくれたかもしれないが、例えば我々40代の人間が同じような覚悟で物事に取り組んでいけるかということだ。我々の世代は2011年の東日本大震災からずっと、真の専門家があっという間にメディアによって、あるいはSNSを通じて「炎上」させられるのを見てきた。そしてその裏側で科学的な、あるいは専門的な知識がなくてもPVを稼げるような「芸人」が持て囃されてきたのも。

そういった経験を一度だけでなく何度でもしてしまうと、もはや個人にとっての最適解は、専門知は自分のためだけに利用するという姿勢を維持することになってしまう(自分の友人でもそういった人間は大勢いる)。しかしそのような状況は、社会にとって望ましいことではない。
だからこそ「何かことがおこった」時に専門家は守られる必要があるのだ。本書はその当たり前の前提が揺らいていることを、その渦中にあった専門家が記したという意味で貴重な一冊になっている。

 

2024年3月18日 (月)

社会を変えるイノベーションは急には起こらないということ: 『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』

5類に変わって今やすっかりコロナがある前提で日常生活を送れるようになった2024年だが、振り返ってみればたった4年前の2020年はコロナで世界中がロックダウンモードに入っていた。ちょうどその頃に重い狭心症で倒れてしまったこともあり、家でひたすらコロナに怯えながら暮らしていたという記憶がある。世の中では自分や家族の年齢ではあまり影響がないといった意見が多かったが、確率的に発生するリスクを避けたいと言う気持ちが強かったのだ。 2021年になってコロナワクチンが開発され、日本でも予防接種ができるようになったときには、ストレスが体から溶けていくような感覚を覚えたものだった。

本書『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』は そのコロナワクチンを開発した会社の1つであるドイツのビオンテックを取り上げたノンフィクションだ。 日本では同じようにmRNAを用いたワクチン開発会社であるモデルナはよく知られているが、ビオンテックについてはあまり知られていないかもしれない。本書にも詳しく買いてあるが、それほど規模が大きくなかったビオンテックはワクチン配布にあたってはファイザーと提携しており、日本では”ファイザー”ワクチンと呼ばれていたからだ。


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mRNAを用いた治療薬の開発を目指すスタートアップ


生物を真面目に勉強した人をのぞいて、コロナワクチンが広く利用されるようになるまではRNAという単語を知っている人はほとんどいなかったと思う。DNAについてはエンタメや親子関係の確定に広く使われているために普通の単語になっているが、RNAはそういった広まり方をしていないからだ。

このRNAというすごく簡単にいうと、DNAの情報をコピーするために使われている(正確に言えば体内に存在するので、”使う”という表現は正しくないが・・)。ここでは、わかりやすく説明することに欠けたは定評のあるChatGPT-4にRNAとは何か?と聞いてみよう。


まず、mRNAというのは「メッセンジャーRNA(リボ核酸)」の略です。私たちの体は、細胞という小さな単位でできています。それぞれの細胞の中には、DNAというものがあり、これが私たちの体の設計図のようなものです。DNAは、体がどうあるべきか、どう動くべきかを決める情報を持っています。

しかし、DNAが直接体を作るわけではありません。DNAから必要な情報を読み取り、それを細胞の他の部分に伝える役割を果たすのがmRNAです。このプロセスを「転写」と言います。転写されたmRNAは、「翻訳」というプロセスを経て、体を構成するたんぱく質を作り出します。


本書によればこのRNAを用いて病気治療を行おうとする考え方は長い間存在していたらしい。mRNAを用いて体内の免疫系を利用する治療方法が確立すれば、よりテーラーメイドな医療を提供することが可能となると考えられていたからだ。
一方でmRANを 利用した治療は、コロナ禍が起こるまではまだ先の話だと考えられていたと本書には書かれている。 これまでにない新しい治療方法であるために、当局の審査や認可を受けるのは簡単ではないし、創薬には莫大な費用がかかるからだ。

ビオンテックは もともとは、感染症に対するワクチンを開発するためのスタートアップではなく、このRNAを用いて がん患者への治療薬を開発することを目的に作られたスタートアップだった。 そのためビオンテックはコロナウイルスが発生した段階においては、すでに上場を果たしており、有望なスタートアップとしてみなされていたらしい。一方でmRNAを用いた新たなプラットフォームを開発するには研究開発資金が十分ではなく、何らかの方法で資金を集めることが必要だったらしい。

ちなみに現在の創薬はかなり分業化が進んでおり、新しいチャレンジングな領域ではスタートアップが創薬の主役を担うことは珍しくない。ファイザーやグラクソ・GSK(グラクソ・スミスクライン)のような会社は、そういった会社を買収したり独占提携契約を結ぶことで、新たな薬を上市していくというのが一般的になっている。


長い研究の果ての商品化


コロナワクチンが開発され世の中に広まっていく過程では、このmRNA と言う技術は、まるで突然天から降ってきた発明のように報道されることもあった。自分も含めてバイオ技術を積極的に追い続けていない人間にとっては、 この技術は、当然学校で習ったこともなく、初めて聞く技術だったからだ。

ところが本書を読むと、このmRNAと言う技術は長い間活用のアイデアが温められ、それほど多くはないとはいえ研究が続けられていたことがよくわかる。実用化されなかったのは、適切なタイミングがなかったということと、もっといえば予算がなかったからだ。

自分は短い間とはいえ米国DARPAに関連する仕事をしたことがあるので、開発された基礎技術が商用化されるまでには数十年単位の年月が必要である事はよく知っている。 なぜそれほどかかるのかを一言で言えば、その技術を商用化するために必要となる要素技術が十分に熟成していないことが多く、 利用できたとしてもコストが高すぎるからことが多いからだ。 例えば今やPCを通じて誰でも利用ができるなった大規模AIも計算機資源が十分に、かつ安価に手に入るようになって初めて実現可能となったことはよく知られている。

言い換えれば、何かものすごい危機やチャンスが発生したからといって、突然新しい発明やアイディアが実現すると言う事は現実世界ではありえないということなのだ。 日の目を見るずっと前からそこに情熱を傾けている人間がおり、あるいは(広い意味での)リスクにかける投資家が何度も倒れた先に、初めて社会を変えるようなイノベーションは実現するのだということを、本書は(そしてmRNAの実用化という例は)教えてくれる。

そしてもう一つ大切なことは、 一度実現したイノベーションは社会に広く実装されるが故に、永遠の成功を約束すると言うわけではないということだ。 本社の中でも複数の会社がmRNA技術を活用してワクチンを開発することになると予言されているし、 実際に今後新しい感染症や、あるいはガンの治療に対してmRNAを用いた治療は行われるようになるだろう。

それはビオンテックの創業者たちにとっては喜ぶべきことかもしれないが、ビオンテックという会社にとっては必ずしも歓迎される事態では無いかもしれない。それはビオンテック社の株価を見ればよくわかる。ビオンテックの株価の推移を見ればよくわかるように、 最高値をつけたのはコロナ禍の2021年8月であり、そこからは多少の波がありながらも下がり続けているのだ。
イノベーションを産むのはまさに資本主義だが、同時にその資本主義はイノベーションを実現した存在に対して、永遠どころか数年の猶予さえ与えてくれない。我々は皆、競争の中に生きているということをビオンテックの例は教えてくれる。

 

2024年3月17日 (日)

子供が自分の部屋で一人で寝るようになった

親と一緒に「川の字で寝る」と言うのは、日本の子育ての特徴の1つらしい。 中国にいたときにはアメリカ人同級生に「じゃあ子供がいる家では、どうやって夫婦で楽しむの?」と聞かれて、家が狭いから台所だったりするらしいよ・・と答えたら爆笑された記憶がある。
我が家も例にもれず、子供が生まれてから今までずっと家族さんに川の字になって寝室で寝ていた。

その息子が突然、自分1人で寝ると言い出し、昨晩は何事もなく自分の部屋で1人で寝ていた。ちょっと前までは「俺はずっと家族で一緒に寝る」とか、「一人じゃ眠れないから、必ずそばにいてくれ」と強く主張していたのに、こちらが驚くほどの成長の早さだ。

彼が突然自分の部屋で寝ることになったきっかけは単純で、いよいよ第二次性徴期の準備を始めなければならないと感じた妻が、彼の部屋を準備したことだ。我が家は都心の狭いマンションなので、いわゆる「子供部屋」のようなものは準備できない。ただしリビングを今流行りのスライド式のドアで区切ることが出来て、区切った部分を簡易的に「子供部屋」としたのだった。


そもそも溢れんばかりに子供のモノがある我が家で、整然と”この部分には誰々のものしか置かない”とすることは不可能なので、簡易的な子供部屋にも親のものはたくさん残っている。それでも初めて自分のパーソナルスペースを手に入れた息子は大喜びで、わずか3畳ぐらいの「自分だけのスペース」には許可なく親が入れないことになっているらしい(もちろんそんなご要望は却下したのだが)。

親側としては最初は一人寝をトライしてもすぐに泣いて帰ってくるとタカをくくっていたのだが、本人によれば気持ちよく熟睡できたらしい。あまりの急展開にこちらの心の準備ができないくらいだ。これまでは寝る前に横に寝ている息子の顔を眺めてから寝るのが楽しみだったのに、どうしたらいいんだ・・と嘆いたふりをしてみたが、こちらも子供に蹴られることなく寝られるのでFitbitの睡眠スコアが一気に改善していた。ちなみに妻は別に寂しくないよ・・といっていたが、犬を抱いて寝ている夢を見たらしく、結構寂しがっていたに違いない(がよく眠れた・・といっていた。夫婦揃って睡眠は正直だ)。

 

これからの春休みで寝室側のベッドを整理して書斎兼夫婦の部屋とすると、彼は本格的に「自分のスペース」を手に入れることになる。独り立ちはいつになるんだろう・・と気を揉んでいたのが嘘のように、子供は勝手に成長していくのだった。まあ、障害物を見えないように取り除くのは必要なんだけど。

 

2024年3月14日 (木)

勉強している内容の備忘録: マンキュー経済学 マクロ経済 第11章(貨幣システム)

この章と次の12章は”長期における貨幣と価格”というセクションに分類され、経済において最も重要な概念の一つである「貨幣」について取り上げる。日常の生活では貨幣とは、いわゆる「お金」を指すに決まっている・・と感じるのだが、マクロ経済という観点からは必ずしも直感的ではないのがこの「貨幣」という概念だ。自然科学畑の自分にとっては、人間が生み出したものを人間自身が定義し直すというのは何か不思議な感じがしないでもないが、この辺りが経済学が人文学系の要素もある理由の一つだろう。

本章では主に概念の説明について多くページが割かれており、その中には自分が見知った概念も多くあるので、そのような部分はさっさと飛ばして読んでいくようにした。

マンキュー経済学 マクロ経済 第11章: 貨幣システム

● 貨幣の意味 ●

日常で我々が利用しているいわゆる「お金」とは違い、経済学においては貨幣とはより限定的な意味で使われている。
マンキューによれば、 貨幣には3つの機能がある。1つ目は「交換手段」であり、財やサービスを買う時に交換をして利用することが可能である。2つ目は計算単位であり、異なる財やサービスの価値を比べることに利用ができる。
そして、3つ目は価値貯蔵機能であり、貨幣を利用することで財やサービスを異なる時点で利用・交換することが可能になる。もし貨幣がなければ、農家は農作物がある時にしか他のものを手に入れられないし、 原材料を必要とする工業等は発展をしなかっただろう。

経済学的に言えば、上記の機能を満たしていれば貨幣なので、必ずしも我々が日常的に使う紙やコインの「お金」である必要は全くない。実際に歴史上(あるいは紙やコインが利用できない場合)では、ある特定のものが貨幣として流通していた。それは金であったり、 貝殻であったり、あるいはタバコであったりする。

 

● 中央銀行について ●

世界各国には 経済を運営するための期間として中央銀行が存在する。アメリカだけは連邦準備と呼ぶが、 昨日としたほぼ同じであり、金融システムを維持するための様々な権限を持っている。

本書によれば、中央銀行の職務は大きく分けると2つある。 1つは銀行に対する最後の貸し手としての機能であり、もう一つは貨幣供給を調節することにより経済をコントロールすることだ。
前者の「最後の貸し手」としての機能が大きくクローズアップされるのは、金融システムが動揺した時だ。例えば、過去には銀行の取り付け騒ぎがあったときに、中央銀行が銀行に現金を供給することで騒ぎを収めることができた。 現代においても、例えばアメリカの金融危機においては、連邦準備が現金を大量に供給することによって危機をコントロールしようとしていた。

もう一つの貨幣供給には、より複雑な効果がある。 一般的に中央銀行は、銀行に対して獲得した預金の一部を中央銀行に預金することを命じている。この準備は通常は預金の数%程度であり、それ以外の預金は銀行が貸出に回すことが出来る。 この貸出が他の銀行に預金されると、その銀行はまだ中央銀行に準備をとして一部を回し、それ以外をまた貸し出しすることが出来る。 このようにしてもともとあった貨幣が、預金をされ再度貸し出しをされることによって増えていくことを、貨幣想像(信用創造)と呼ぶ。

中央銀行は、国債の売買や準備の割合(公定歩合と呼ぶ)をコントロールすることにより、市中に回る貨幣の量をコントロールすることが出来る。 ただし公定歩合を毎日のように変更することは実務上は現実的ではなく、日常の貨幣量のコントロールは国債の売買によって行われることが多い。

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