わからない情報にぶつかった時に考えること
前回のエントリーとの関連みたいな話になってしまうけど、今日の出来事であらためて考えることがあったので、タイトルのような話を書いておこうと思う。
今日午後、オバマ大統領が、アルカイダの指導者(と便宜的に表現する)であるオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden)を殺害したと発表した(リンク記事はNYT)。
TL上ではこの大事件について色々と意見が繰り広げられていたのだが、僕個人で言えばとりあえずこの事件については一切コメントしなかった。自分にとって論評するには余りにも情報が少ないし、政治的・軍事的・法的な背景知識が皆無だったからだ。例えばざっと挙げただけでも以下の疑問が浮かんだ(想像はつくけど、明確に説明可能でないという意味での疑問)。
① なぜこれほどまでにビン・ラディンの死がアメリカ国民の喜びとなるのか?
② アメリカが第三国(パキスタン)で直接的な軍事行動をする法的根拠は?
③ 同じくアメリカが第三国の国民(ビン・ラディン)を裁判なしで殺せる法的根拠は?
④ なぜ逮捕ではなく、ただちにビン・ラディンを殺したのか?
個人としてこういった「自分としてよくわからない情報」についてそれぞれの背景や情報の正否がわかるまでは発言をしたくない・・という気持ちが僕には強くあって、かといってそういう時間もないし、もっと裏のことを読むべきであるということも同時に思ったので、とりあえずTLをながめるだけにしておいた。少なくとも知的に誠実であろうとすればそうあるべきだと僕は思っている。
原発についても実は同様に思っていて、僕がフォローしている約500人+FBの友人たちの発言を見ていると「とりあえずの反応」というのが多くて、残念になるときがある。例えば僕はおそらく一般の方よりは工学的知識があると思うのだが、放射線に関係する法律についての知識はほとんどないし、公衆衛生学の知識はさらにない。
そういった中ではある特定の値について論評することが出来ないし、どの情報ソースが正しいかということも一瞥しただけでは判断できない。情報というのは必ず伝える側のバイアスがかかっているものだし、FBやTwitterのように短文での表現だと情報がきりとられることがあるので、脊髄反射的な行動はしないようにしている。
そこでようやく今日の本題に入るわけだが、この頃考えていることの一つに「自分がわからない情報にあたった場合にどのように対処すべきか」ということがある。少なくともこれを守っていれば、誤った反応・誤った情報の拡散をせずに、情報の流れを少しでも改善できるのではないかと考えている。
① 極端な報道は信じない。たとえ、現地からであったとしても。
メディアというのはどうしても売れやすい記事やわかりやすいTOPICをおってしまう ものなので、極端な報道というのは信じないようにしている。特に写真報道についてはショッキングな写真は高く売れるし、個々のジャーナリストからしても賞の対象となるというインセンティブがあるので、とりあえず事実の一つ以上の意味はないというように考えている。
② 事実は必ず両側から見る。想像力をプラスして。
どんな事実も、報道時には解釈が含まれる(解釈が含まれないのは生の数字が伝えられた場合のみ)。それは文面中には明確に示されなくても、言葉の選択一つ一つの中に含意されている。なので情報を読む時にはなるべく反対の立場にいるであろうと想像される報道を二つ以上は読むようにしている。できれば、違う国の報道であればなおよい。
ちなみに僕は「ファクトベースでの○○」というものはあまり信じていない。自分でローデータを取ることができる立場にいるならともかく、本当のファクトベースなど極めて少ないというのが、自分の立場だ(そう前提を置いた上でファクトベースでありたい)。
③ 信念は持たない。心は空っぽに。
何かの情報に触れる時には、必ず「予想」はしても「信念」はもたないようにしたいと思っている。実際には完全なのは不可能だし、予想と信念を明確にきりわけることは不可能だろうけど、それでも「自分が見たくない真実」を受け入れられるようになるべく心は空っぽにしている。
自分個人としては知というものに誠実でありたい、と強く思っているし、自分でコントロールできていないアホっぷりはばらまきたくないので、本当にわからない時は黙っているのが一番であると思っている。また、それなりの人が読む言説に対しては、少なくとも自分としては責任を持ちたいとも思っている(持つべきであるとは思っていないが・・)。
ネットの世界ではキュレーター論や個人による情報ディストリビューションという意見がこの頃少しずつ勢いを増しているように思うが、少なくとも僕は震災やある政治的な大事件を見る限り、その流れには懐疑的である。ある事柄で信頼できる内容を話している人も、別の事柄にはまるで見当違いということが確認できたし、数を頼みに「世論を作っている感を持ちたい」という誘惑があることも、自分のフォロワーが増えてみて自分自身で感じた。
結局何が役に立つのかというと、すごく当たり前のことだが日々の情報のフローを自分の中でストックし資産とするしかないのだと思う。人は自分の発言によって、自分自身にもバイアスをかけてしまう生き物なので、今日のように情報の流れが速いからこそ、一歩立ち止まって自分の中で情報が咀嚼される時間というのを取ることが大切なんではないか・・・と考えている。
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