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2020年2月20日 (木)

スキルのポータビリティ性と、生涯における学習意欲と

今の仕事を始めてから色々なお客様の工場に訪問する機会をいただくことが増えた。日本では生産設備の改善に情熱をかけ資金を投入する文化がある。
以前にアメリカで自動車業界のコンサルタントが書いたレポートを読んだ時に、アメリカでは生産改善を「競争力の強化」と捉える一方で、日本企業は「会社の文化」そのものであると表現していた。
自分はそこまで生産工学に詳しいわけではないが、それでも何回も工場訪問をすると、その情熱は会社の根本に根ざしたものだと感じるようになる。


基本的に工場というのは高度に自動化がなされているものである。一方で、余人では代え難いという現代の名工や達人と呼ばれる方々が日々の業務に取り組まれている場所でもある。
この二つの事実は矛盾しているようで、実際に現場にたつと全く矛盾していないことに気がつく。既に自動化やロボット化が可能な部分は全て対応しており、現在の商用技術では不可能な部分が人間により担われているからだ。うちの会社のはそういった部分に適用可能な新しい技術を開発することが仕事の一つだ。


達人の仕事というのは常人の想像をはるかに超えたレベルの精度まで達している(例えば数ミクロンの差を目で判断するなど・・・)。一方で、その技術の汎用性、ポータビリティ性というのは驚くほど低い。その技術は長年にわたり極めて具体的かつ特殊な環境での研鑽により手に入れることが出来たものだからだ。
極端な話、同じ工場であってもラインを変えると技能が活かされないということすらある。それだけ繊細でかつ特化した技術だということだ。
こういった特徴のため、余人にをもって代え難い技術をもっている場合でも、その工場が廃止されたり企業が倒産してしまった場合には、その技術を活かす場がなくなってしまい職を失ってしまうことになる。
正直にいうと、今の仕事に着くまでは「工場を潰す/合理化する」ということの意味をわかっていなかった。長年続いた工場をなくすということは、単に生産拠点をなくすだけでなく、時にはそこにいる方の人生の意味を取り去ってしまうことになるかもしれないということだ。

日本の製造業が素晴らしいのは、ものづくりということを大切にしているよりも、むしろこういった工員たちを大切にすることにあると思う※1。ポータビリティ性が高い技術を持っている人は積極的に入れ替えても良いが、そうでない人の職は守るべきというのが今の僕の立場だ。


うちの会社のサービスというのは一面ではそういった人の仕事を奪ってしまうことになってしまう。なぜなら、多くの場合はそういった「達人しかできないという領域」を形式知化し、可能であれば自動化するということだからだ。
しかし、実際の活動の場では、達人達は実に積極的に協力してくれる。その理由は2つある。
1つは、彼ら自身も「自分だけが出来る」という状況がよいとは思っていないということ。もう1つは、自分の領域が自動化されたとしても隣接領域のより難しい部分は依然として人間が必要になるということを、感覚的に理解しているからだ。
AIが仕事をうばってしまうという懸念は世界中であるし、現実的に人がやる仕事というのはどんどん物理的なものは減っていくだろう。それでも、一足飛びには人間がものづくりで不要になるということはないし、それは現実的な想定ではない(自動化すると、今度はその自動化された機器を精度良く調整する人間が必要になるのだ)。
必要がなくなったら新しいことを学べばよいのですよ、と達人達はみな同じことをいう。そういった心持ちこそが彼らを達人たらしめているのではないかと、毎回のプロジェクトで感じている。

 

 

※1・・・僕は別の理由で、日本企業は本当は「これからの」ものづくりには向いていないのではないか・・・という仮説を持っている。

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