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2024年3月

2024年3月30日 (土)

コロナ禍を学習の機会とするために: 『1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録』

先日mRNAワクチン開発に関するドキュメンタリーを読んだから・・というわけではないが、日本におけるコロナ対策の先頭に立った尾身先生の本を読んでみた。我々一般人はワクチンが開発された段階でなんとなくコロナ禍は終わってしまった気がしていたが、対策に日々奮闘されていた方にとってはそれはまだ道半ばだったということが”1100日”というタイトルを読むとよくわかる。</ br> </ br> ちょうど家族の都合で病院に行った時にもまだ厳戒態勢は続いていて、コロナはまだ現在進行形の危機なんだなと感じたこともあり、あっという間に読み終わってしまった。以下は読んでいて気がついたメモから起こした備忘録になる。

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会議が多すぎて一般人にはよくわからない


自分はおそらく一般の人よりはニュースを多く見ているだろうし、行政に関する知識を持っていると自負している。その自分でも本書を読むまでコロナ関連でこれほど多くの会議が設定され、並行的に動いていることは把握できていなかった。参加されている有識者の方は「この会議は何のためにあるのか」ということを理解されてアジェンダを設定されていたのだと思うが、この複雑な会議体を初見で理解するのはほぼ不可能に近い。

本書では社会(=一般の人々)とのコミュニケーションについて悩むシーンが繰り返し出てくるが、この体制図を見ると、そもそもの体制から理解をするのが難しいと感じずにはいられなかった。それぞれの会議には根拠となる法律があるので仕方がないが、名称も含めて区別をするのが難しすぎる。一時、「コロナを2類とするか、5類とするか」で単純化された議論があったが、一般の人にとってはあれぐらい単純化してくれないとわからないのではないだろうか。


「ハンマー&ダンス」は難しかった


本書ではコロナ禍後期の対策の基本方針として「ハンマー&ダンス」という戦略を取ったということが繰り返し書かれている。 この「ハンマー&ダンス」と言うのは社会全体にコロナ対策疲れが広がってきた際に、基本的には対策を緩める(ダンスを許可する)一方で、 クラスターが発生する、あるいは医療逼迫の可能性が高くなる場合には対策を厳しくする(ハンマーを振るう)という戦略のことをいう。

この「ハンマー&ダンス」という戦略は理論的には良いと思うのだが、一般市民の観点からはあまり機能していなかったように思う。 まずこの言葉そのものを知っていると言う人間が少ないだろう。
日本独自の対策であり、やがて世界に広がった”三密”はコロナ禍初期に策定された戦略ということもあり、一般市民にも広く浸透していた。 しかしワクチンがある程度広まり、社会生活が元に戻りつつあった段階でのこの「ハンマー&ダンス」を意識して行動した人がどれほどいたかというと、あまり実例を見つけるのは難しいのではないだろうか。実際に自分もこの戦略を意識して行動したとは言い難い。

また現実的にも、いきなりハンマーを振られても対応できないと言うのはあったと思う。明日から、あるいは来週から行動制限してください・・と言われても、日常生活のサイクルを変えられるのは、それこそリモートワークが完全に可能な職種ぐらいではないだろうか。 日常生活を取り戻したいと言う社会的経済的な圧力と、コロナ対策を両立させる方法として立案された戦略だったと思うのだが、現実には適用が難しかった戦略だったと判断している。


情報の取り扱いや意思決定が軽い


本書を読むと、特にコロナ禍の後半では政府の情報の取り扱いや意思決定が非常に軽かったのが目立ってくる。 日本ではこれまでも、そして現在も日々当たり前のように事前リークが行われているが、政治や行政では既成事実を作って物事を進めると言うのが1つの様式になってしまっているように見える。

また実際には専門家に相談していないにもかかわらず、専門的な知識から決定したと言うのは、厳密には嘘のわけで、この辺もわが国の政治における言葉の軽さが如実に現れていると感じた。
本書が書かれた理由の一つでもあり、専門家の奮闘を支える原動力の一つとなっていたが「対策は最終的には歴史が判断する」という価値観だ。言葉が軽い、あるいは情報の取り扱いが軽いという人の価値観はいわばその対局にあるわけで、究極的には「今を生きる」政治家や官僚と、「歴史の一部である」専門家たちの価値観と違いがそこにはあったように思う。もちろん個人的には、自分は後者にシンパシーを感じているのは言うまでも無い。


医者も職業の一つであるのに、我々は無理をさせすぎたのではないだろうか


本書に書かれている内容の中で、一般市民がコロナ禍において理解できていなかったと思われることの一つが、多くの対策が現場の関係者の努力によって支えられており、彼らも「一人の人間」ということだ。もちろんそのこと自体はメディアでも繰り返し報道されたし、特にコロナ禍当初は多くの感謝の声が上がったように、多くの人が意識していたことだと思う。

しかし時間が経つにつれて、本書でも書かれているように医療関係者の頑張りへの理解というのは薄まっていった。そしてその傾向は、実は医療関係者の中でもあったようなのだ。それがわかるのが、JCHO傘下にある病院がコロナ病床を拡充した際に多くの医者・看護師が辞めてしまい、そのことに院長が「こんなに辞めてしまうとは思わなかった」と驚くシーンで、自分が本書を読んでいて一番驚いたのがまさにこのシーンだった。

当たり前だが医療関係者(我々から見るとお医者様だが・・)も自分のキャリアや生活を守る権利がある。医療関係者全てがコロナ(感染症)を専門にしたいというわけではないだろうし、 自分の家族を犠牲にしてまで医療に関わりたいと思う人ばかりではない。そういった当たり前の事実、医療関係者も市民であるということを”見ないふり”していたというのが、コロナ対策の一面の真実であるということに改めて気付かされた。


専門家は守られなければならない


上のテーマと関連して、本書では専門家たちが一般の人たちから脅迫を受けたことが何回か触れられている。 このこと自体はSNSで言及されることが多かったのでよく知られた事実だが、本書を見ると専門家にとっても大きなストレスになったことがよくわかる。

専門家が社会から敵視され、あるいは脅迫の対象となったのは、本書でははっきりとは言い切っていないが間違いなく政治と行政の責任だ。 本書で繰り返し述べられているように、専門家はその専門的な知識を持ってアドバイスを行う、あるいは提言を行うことが仕事であって、実際の決断を行うのは彼らの仕事ではない。この線引きは、彼らが仕事をする、あるいは政策を決定し実行する上での大前提であり、そのような前提を壊してしまった政治や行政、そしてメディアの責任は重い。

心配なのは、すでに74歳になる尾身先生の世代であれば このような脅迫にも負けず仕事を完遂してくれたかもしれないが、例えば我々40代の人間が同じような覚悟で物事に取り組んでいけるかということだ。我々の世代は2011年の東日本大震災からずっと、真の専門家があっという間にメディアによって、あるいはSNSを通じて「炎上」させられるのを見てきた。そしてその裏側で科学的な、あるいは専門的な知識がなくてもPVを稼げるような「芸人」が持て囃されてきたのも。

そういった経験を一度だけでなく何度でもしてしまうと、もはや個人にとっての最適解は、専門知は自分のためだけに利用するという姿勢を維持することになってしまう(自分の友人でもそういった人間は大勢いる)。しかしそのような状況は、社会にとって望ましいことではない。
だからこそ「何かことがおこった」時に専門家は守られる必要があるのだ。本書はその当たり前の前提が揺らいていることを、その渦中にあった専門家が記したという意味で貴重な一冊になっている。

 

2024年3月18日 (月)

社会を変えるイノベーションは急には起こらないということ: 『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』

5類に変わって今やすっかりコロナがある前提で日常生活を送れるようになった2024年だが、振り返ってみればたった4年前の2020年はコロナで世界中がロックダウンモードに入っていた。ちょうどその頃に重い狭心症で倒れてしまったこともあり、家でひたすらコロナに怯えながら暮らしていたという記憶がある。世の中では自分や家族の年齢ではあまり影響がないといった意見が多かったが、確率的に発生するリスクを避けたいと言う気持ちが強かったのだ。 2021年になってコロナワクチンが開発され、日本でも予防接種ができるようになったときには、ストレスが体から溶けていくような感覚を覚えたものだった。

本書『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』は そのコロナワクチンを開発した会社の1つであるドイツのビオンテックを取り上げたノンフィクションだ。 日本では同じようにmRNAを用いたワクチン開発会社であるモデルナはよく知られているが、ビオンテックについてはあまり知られていないかもしれない。本書にも詳しく買いてあるが、それほど規模が大きくなかったビオンテックはワクチン配布にあたってはファイザーと提携しており、日本では”ファイザー”ワクチンと呼ばれていたからだ。


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mRNAを用いた治療薬の開発を目指すスタートアップ


生物を真面目に勉強した人をのぞいて、コロナワクチンが広く利用されるようになるまではRNAという単語を知っている人はほとんどいなかったと思う。DNAについてはエンタメや親子関係の確定に広く使われているために普通の単語になっているが、RNAはそういった広まり方をしていないからだ。

このRNAというすごく簡単にいうと、DNAの情報をコピーするために使われている(正確に言えば体内に存在するので、”使う”という表現は正しくないが・・)。ここでは、わかりやすく説明することに欠けたは定評のあるChatGPT-4にRNAとは何か?と聞いてみよう。


まず、mRNAというのは「メッセンジャーRNA(リボ核酸)」の略です。私たちの体は、細胞という小さな単位でできています。それぞれの細胞の中には、DNAというものがあり、これが私たちの体の設計図のようなものです。DNAは、体がどうあるべきか、どう動くべきかを決める情報を持っています。

しかし、DNAが直接体を作るわけではありません。DNAから必要な情報を読み取り、それを細胞の他の部分に伝える役割を果たすのがmRNAです。このプロセスを「転写」と言います。転写されたmRNAは、「翻訳」というプロセスを経て、体を構成するたんぱく質を作り出します。


本書によればこのRNAを用いて病気治療を行おうとする考え方は長い間存在していたらしい。mRNAを用いて体内の免疫系を利用する治療方法が確立すれば、よりテーラーメイドな医療を提供することが可能となると考えられていたからだ。
一方でmRANを 利用した治療は、コロナ禍が起こるまではまだ先の話だと考えられていたと本書には書かれている。 これまでにない新しい治療方法であるために、当局の審査や認可を受けるのは簡単ではないし、創薬には莫大な費用がかかるからだ。

ビオンテックは もともとは、感染症に対するワクチンを開発するためのスタートアップではなく、このRNAを用いて がん患者への治療薬を開発することを目的に作られたスタートアップだった。 そのためビオンテックはコロナウイルスが発生した段階においては、すでに上場を果たしており、有望なスタートアップとしてみなされていたらしい。一方でmRNAを用いた新たなプラットフォームを開発するには研究開発資金が十分ではなく、何らかの方法で資金を集めることが必要だったらしい。

ちなみに現在の創薬はかなり分業化が進んでおり、新しいチャレンジングな領域ではスタートアップが創薬の主役を担うことは珍しくない。ファイザーやグラクソ・GSK(グラクソ・スミスクライン)のような会社は、そういった会社を買収したり独占提携契約を結ぶことで、新たな薬を上市していくというのが一般的になっている。


長い研究の果ての商品化


コロナワクチンが開発され世の中に広まっていく過程では、このmRNA と言う技術は、まるで突然天から降ってきた発明のように報道されることもあった。自分も含めてバイオ技術を積極的に追い続けていない人間にとっては、 この技術は、当然学校で習ったこともなく、初めて聞く技術だったからだ。

ところが本書を読むと、このmRNAと言う技術は長い間活用のアイデアが温められ、それほど多くはないとはいえ研究が続けられていたことがよくわかる。実用化されなかったのは、適切なタイミングがなかったということと、もっといえば予算がなかったからだ。

自分は短い間とはいえ米国DARPAに関連する仕事をしたことがあるので、開発された基礎技術が商用化されるまでには数十年単位の年月が必要である事はよく知っている。 なぜそれほどかかるのかを一言で言えば、その技術を商用化するために必要となる要素技術が十分に熟成していないことが多く、 利用できたとしてもコストが高すぎるからことが多いからだ。 例えば今やPCを通じて誰でも利用ができるなった大規模AIも計算機資源が十分に、かつ安価に手に入るようになって初めて実現可能となったことはよく知られている。

言い換えれば、何かものすごい危機やチャンスが発生したからといって、突然新しい発明やアイディアが実現すると言う事は現実世界ではありえないということなのだ。 日の目を見るずっと前からそこに情熱を傾けている人間がおり、あるいは(広い意味での)リスクにかける投資家が何度も倒れた先に、初めて社会を変えるようなイノベーションは実現するのだということを、本書は(そしてmRNAの実用化という例は)教えてくれる。

そしてもう一つ大切なことは、 一度実現したイノベーションは社会に広く実装されるが故に、永遠の成功を約束すると言うわけではないということだ。 本社の中でも複数の会社がmRNA技術を活用してワクチンを開発することになると予言されているし、 実際に今後新しい感染症や、あるいはガンの治療に対してmRNAを用いた治療は行われるようになるだろう。

それはビオンテックの創業者たちにとっては喜ぶべきことかもしれないが、ビオンテックという会社にとっては必ずしも歓迎される事態では無いかもしれない。それはビオンテック社の株価を見ればよくわかる。ビオンテックの株価の推移を見ればよくわかるように、 最高値をつけたのはコロナ禍の2021年8月であり、そこからは多少の波がありながらも下がり続けているのだ。
イノベーションを産むのはまさに資本主義だが、同時にその資本主義はイノベーションを実現した存在に対して、永遠どころか数年の猶予さえ与えてくれない。我々は皆、競争の中に生きているということをビオンテックの例は教えてくれる。

 

2024年3月17日 (日)

子供が自分の部屋で一人で寝るようになった

親と一緒に「川の字で寝る」と言うのは、日本の子育ての特徴の1つらしい。 中国にいたときにはアメリカ人同級生に「じゃあ子供がいる家では、どうやって夫婦で楽しむの?」と聞かれて、家が狭いから台所だったりするらしいよ・・と答えたら爆笑された記憶がある。
我が家も例にもれず、子供が生まれてから今までずっと家族さんに川の字になって寝室で寝ていた。

その息子が突然、自分1人で寝ると言い出し、昨晩は何事もなく自分の部屋で1人で寝ていた。ちょっと前までは「俺はずっと家族で一緒に寝る」とか、「一人じゃ眠れないから、必ずそばにいてくれ」と強く主張していたのに、こちらが驚くほどの成長の早さだ。

彼が突然自分の部屋で寝ることになったきっかけは単純で、いよいよ第二次性徴期の準備を始めなければならないと感じた妻が、彼の部屋を準備したことだ。我が家は都心の狭いマンションなので、いわゆる「子供部屋」のようなものは準備できない。ただしリビングを今流行りのスライド式のドアで区切ることが出来て、区切った部分を簡易的に「子供部屋」としたのだった。


そもそも溢れんばかりに子供のモノがある我が家で、整然と”この部分には誰々のものしか置かない”とすることは不可能なので、簡易的な子供部屋にも親のものはたくさん残っている。それでも初めて自分のパーソナルスペースを手に入れた息子は大喜びで、わずか3畳ぐらいの「自分だけのスペース」には許可なく親が入れないことになっているらしい(もちろんそんなご要望は却下したのだが)。

親側としては最初は一人寝をトライしてもすぐに泣いて帰ってくるとタカをくくっていたのだが、本人によれば気持ちよく熟睡できたらしい。あまりの急展開にこちらの心の準備ができないくらいだ。これまでは寝る前に横に寝ている息子の顔を眺めてから寝るのが楽しみだったのに、どうしたらいいんだ・・と嘆いたふりをしてみたが、こちらも子供に蹴られることなく寝られるのでFitbitの睡眠スコアが一気に改善していた。ちなみに妻は別に寂しくないよ・・といっていたが、犬を抱いて寝ている夢を見たらしく、結構寂しがっていたに違いない(がよく眠れた・・といっていた。夫婦揃って睡眠は正直だ)。

 

これからの春休みで寝室側のベッドを整理して書斎兼夫婦の部屋とすると、彼は本格的に「自分のスペース」を手に入れることになる。独り立ちはいつになるんだろう・・と気を揉んでいたのが嘘のように、子供は勝手に成長していくのだった。まあ、障害物を見えないように取り除くのは必要なんだけど。

 

2024年3月14日 (木)

勉強している内容の備忘録: マンキュー経済学 マクロ経済 第11章(貨幣システム)

この章と次の12章は”長期における貨幣と価格”というセクションに分類され、経済において最も重要な概念の一つである「貨幣」について取り上げる。日常の生活では貨幣とは、いわゆる「お金」を指すに決まっている・・と感じるのだが、マクロ経済という観点からは必ずしも直感的ではないのがこの「貨幣」という概念だ。自然科学畑の自分にとっては、人間が生み出したものを人間自身が定義し直すというのは何か不思議な感じがしないでもないが、この辺りが経済学が人文学系の要素もある理由の一つだろう。

本章では主に概念の説明について多くページが割かれており、その中には自分が見知った概念も多くあるので、そのような部分はさっさと飛ばして読んでいくようにした。

マンキュー経済学 マクロ経済 第11章: 貨幣システム

● 貨幣の意味 ●

日常で我々が利用しているいわゆる「お金」とは違い、経済学においては貨幣とはより限定的な意味で使われている。
マンキューによれば、 貨幣には3つの機能がある。1つ目は「交換手段」であり、財やサービスを買う時に交換をして利用することが可能である。2つ目は計算単位であり、異なる財やサービスの価値を比べることに利用ができる。
そして、3つ目は価値貯蔵機能であり、貨幣を利用することで財やサービスを異なる時点で利用・交換することが可能になる。もし貨幣がなければ、農家は農作物がある時にしか他のものを手に入れられないし、 原材料を必要とする工業等は発展をしなかっただろう。

経済学的に言えば、上記の機能を満たしていれば貨幣なので、必ずしも我々が日常的に使う紙やコインの「お金」である必要は全くない。実際に歴史上(あるいは紙やコインが利用できない場合)では、ある特定のものが貨幣として流通していた。それは金であったり、 貝殻であったり、あるいはタバコであったりする。

 

● 中央銀行について ●

世界各国には 経済を運営するための期間として中央銀行が存在する。アメリカだけは連邦準備と呼ぶが、 昨日としたほぼ同じであり、金融システムを維持するための様々な権限を持っている。

本書によれば、中央銀行の職務は大きく分けると2つある。 1つは銀行に対する最後の貸し手としての機能であり、もう一つは貨幣供給を調節することにより経済をコントロールすることだ。
前者の「最後の貸し手」としての機能が大きくクローズアップされるのは、金融システムが動揺した時だ。例えば、過去には銀行の取り付け騒ぎがあったときに、中央銀行が銀行に現金を供給することで騒ぎを収めることができた。 現代においても、例えばアメリカの金融危機においては、連邦準備が現金を大量に供給することによって危機をコントロールしようとしていた。

もう一つの貨幣供給には、より複雑な効果がある。 一般的に中央銀行は、銀行に対して獲得した預金の一部を中央銀行に預金することを命じている。この準備は通常は預金の数%程度であり、それ以外の預金は銀行が貸出に回すことが出来る。 この貸出が他の銀行に預金されると、その銀行はまだ中央銀行に準備をとして一部を回し、それ以外をまた貸し出しすることが出来る。 このようにしてもともとあった貨幣が、預金をされ再度貸し出しをされることによって増えていくことを、貨幣想像(信用創造)と呼ぶ。

中央銀行は、国債の売買や準備の割合(公定歩合と呼ぶ)をコントロールすることにより、市中に回る貨幣の量をコントロールすることが出来る。 ただし公定歩合を毎日のように変更することは実務上は現実的ではなく、日常の貨幣量のコントロールは国債の売買によって行われることが多い。

2024年3月11日 (月)

SNSで話題になっている『鬼時短』を読んでみた: 文化を変えないといいつつも神輿の動き方は変える必要あり

マーケティングや広告業界で働いている人間であれば『鬼十則』 と言う単語を知らない人がいないだろう。電通の行動規範のようなものとして業界に広く知られているこの鬼十則、社外の人は10個全部言うことができなくても、1つ2つであれば言うことができる人も多いかもしれない。自分も『仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない』とか、『周囲を引きずり回せ、引きずると引きずられるのとでは、永い間に天地 のひらきができる』などは、言葉は多少違うがいうことができた。

本書のタイトルは当然この『鬼十則』からヒントを得て付けられている・・というのも、 本書は、その点数の働き方改革、もっと言えば時短を進めた当事者が、そのノウハウを書き起こしたものだからだ。 かつては 夜中まで電気がついていた汐留ビルが22時になると電気が真っ暗になる、まさにその改革を主導した方による”時短 = 業務改革”のためのレシピが本書になる。


文化は変えずに働き方を変えよう

本書にあるように、残業というのは一つの文化として定着していることが多い。仕事が多すぎるということも時にはあるが、 どちらかと言えば周囲やお客さんに「こんなに遅くまで働いているのだ」と伝えるパフォーマンスの要素もかなり強い。自分もコンサル時代に”あえて”顧客へのメールを夜中に送って、自分たちは働いているアピールをしたこともあった。

本書では、時短を始めるにあたってはその「文化」・・・言い換えれば”顧客志向”とでもいえばいいのだろうか、を変える必要はないというところからスタートする。これまでの会社の成長、あるいは個人にとっての勝利をもたらしてきた文化は変える必要はなく、あくまで実際の働き方、もっと言えば時間の使い方を変えると言うことにフォーカスするのだ。

実を言うとコンサルタント経験者にとってはこのアプローチはちっとも違和感はない。今ではあまりやらなくなってしまったかもしれないが、ほんの10年ほど前にはコストカットのためにABC(Active-based costing)分析というのをやるのが流行っていた。これは業務をなるべく細かな単位に分けて、それぞれにかかる時間とコストを計算するという手法で、観察と分析に膨大な時間がかかるのだが、かなり正確に”自分たちが何をやっているか”を可視化することが出来る※1。本書ではABCという単語は出てこないが、この手法をまず全社的に展開をしたようなのだ。


”今”を尊重するところから始めよう

このABCをやると、依頼をした方(多くは経営陣か経営企画の”業務改革担当”のような方)はもちろんのこと、調査をされる方の当事者でも驚くような結果が出ることが多い。正確にいえば、後者の方は「わかっていたけど、やっぱりこんなに無駄な時間があったのね」というやつだ。

ABCでは時間だけではなく、それぞれがどのような業務(あるいはタスク)に時間を使っていたかが正確にわかっているので、無駄が明らかになったら後は対応するだけで良い・・のだが、実際はそんな風には進まない。本書にもある通り、それぞれの業務というのはそれなりの意味があって存在しており、たとえちょっとしたことでも変更したり無くしたりするのは難しいのだ。

ここで重要なのは、本書にもある通り「それなりの意味」というのは必ずしも「そのタスクが価値を生み出す」ということとイコールではないということだ。時には「XXさんが部署にいるためには、この仕事が必要なのだ」という主客逆転のようなこともよくある。会社から見たら無駄以外の何者でもないが、その業務を担っている”ムラ”からすると、必要なことなのだ。なんというか、一種の祭祀のようなものであると思った方がいい。

本書ではそのような”一見無駄”でも、まずは尊重して物事を始めようということを繰り返し語っている。現代合理主義者が”雨乞いをしても雨は降らないからやる必要はない”と最初から断言してはダメなのだ。


それでもリーダーは変わらないといけない

本書が想定読者としているのは、あくまで時短といった改革を進める側の人間になると思う。本書は「時短をさせられる側」に対しては、できる限り現状を尊重した方が良いと繰り返して書いているが、この想定読者に対しては強く自己変革を求める。 今までの日本式のやり方では、時短のような 大きな改革を成し遂げる事は不可能であるとはっきり言っている。

言い換えれば、一般社員は最後の最後まで自発的に変わらなくても良いが、 リーダーは率先して自分を変えなければならないのだ。そしてこの自分を変える方向と言うのは、時に本書においては否定的に使われているMBAや外資系企業の考え方そのものだ。 明確な指示を出し、率先して自分のアイディアを部下に伝え、そしてうまくいかない場合の責任は自分にあるとする。逆説的ではあるが、日本企業の文化を守りその中で改革を行うのであれば、リーダーだけは日本風であってはいけないのだ。

この考え方はより深く考えれば、結局のところ変革において求められるリーダーと言うのは、洋の東西を問わず同じような資質を持ち、同じような行動をとることが求められていることを意味する。本書ににおいて実はこの部分が最も難しい部分で、著者も認めるように日本の経営幹部は各部署の利益代表としての顔を持ち合わせている。 偉くなった人間は、部署の利益や意向をかなりの部分において代弁することが求められるのだ。

そのような人間がある時、突然改革が必要になったときに、自分の思考方法や働き方を変えると言うのはかなり難しい。本書ではそもそも改革のために社外からリーダーを引っ張ってくるということは想定していないので、改革が成功するためには、このような求められる人間が既に幹部に存在しているということが必要条件になる。
ただこれははっきりいって意図的に出來るものではない。電通の場合は偶然なのか、それとも必然なのかわからないが、そういった人間が上層部にいたことが結果的に時短と働き方変革を実現する要因となったということなのだ(少なくとも本書を信じれば、だが・・・)


日本企業はやっぱり大変だなぁとついつい思いがちな外資系人間の自分

自分がかつて在籍していたIBMが赤字になった際に、ガースナーという外部経営者を招聘して大改革を行った。その時にもっとも時間をかけてチェンジマネジメント(変革の推進)をしたのが、日本だったというのは内部では有名な話だった。当時は、米国の本社を除けばもっとも売上が大きく、かつ人員も最大ということで日本をまず対象にしたというのが建前で、本音は日本が最も変革が難しいと本社ではみられていたからだ。日本で改革が軌道に乗り始めて、ようやく米国本社は「この変革は必ず成功する」と確信を持てたらしい。

当時は半ば連邦制のようになっていたとはいえ、一応は米国資本のIBMですら日本支社の抵抗は頑強だったのだ。これが日本に本社があり、経営陣もほとんど日本人という会社では、さらに変革の難易度が上がることは間違いない。
そういった”難易度の高い”日本企業の変革をやろうとしたら、間違いなく本書のようなアプローチを取るしかない。まず経営者(あるいは経営幹部)が自らの態度を変え、その上で現場を尊重して、丁寧に時間をかけながら一歩一歩価値を感じてもらう。この方法は、いわゆるMBAで学ぶチェンジ・マネジメントの王道でもある。

しかし一方で、外資に長くいて、元からして頭の中は外人のようだった自分からすると「こんな面倒くさいのはとても自分が社員だったらやってられん」というのも正直な感想だ。外部のコンサルタントとしてこういった案件があればこのような方法は取るだろうが、自分が発注側で主体になるとしたら、ここまで根性が持たないと思う。そういった意味で、この著者の方の一番すごいところは「自分が超伝統的企業で育ちながらも、最後までやり切った」というところにあるのは間違いない。


※1・・・家庭生活でもこの手法を持ち込んでいる人も多くいた・・のだが、そもそもコストの定義が難しいので個人的には意味があんまりないと思っていた

勉強している内容の備忘録: マンキュー経済学 マクロ経済 第10章(失業)

第7章「生産と成長」から続いてきた第Ⅲ部 長期の実物経済も本章で終わりとなる。マクロ経済学の主要な論点の一つが景気循環とそれにともなう失業の発生であることを考えれば、本章はこの教科書の中でも主要な論点の一つと言えるだろう。この章では、そもそも失業とは何かという経済学的な定義から、失業が発生する理由、そしてその失業の痛みを減らすとは一般的に思われている各種政策の影響を網羅的に論じている。

マンキュー経済学 マクロ経済 第10章: 失業

● 失業を識別する ●

失業を問題として捉えるのであれば、まず「失業とは何か」と学問的に定義しなければならない。単に”働いていない”というだけでは失業ではないと言うのは、子供や専業主婦がいる家庭のことを思い浮かべればすぐにわかる。そこで経済学では失業を考えるにあたって、まず人間を以下のようにラベリング(カテゴリー分けする)。

  • 雇用者
  • 失業者
  • 非労働力

ここでいう失業者とは「働く意欲があり、働くことが法的に認められているのに仕事がない」人のことを指す。言い換えると、”仕事が見つからずに、働く意欲を失ってしまった人”は失業者には入らないというわけだ。そして失業率は労働力人口(雇用者と失業者)の合計で、失業者を割ったものとなる。

失業率 = 失業者/(雇用者+失業者)×100%

この失業率はさらに、自然失業率と循環的失業の2つに分けることが出来る。
自然失業率というのは失業率が上下する際の基準となっているような失業率であり、実際に計測される失業率とその自然失業率の差異を循環的失業と呼ぶ・・というのが定義だ。
ここで疑問になるのは、自然失業率がなぜ正になるのか、言い換えるとなぜ「常に失業は存在するのか」ということだ。この教科書では大きく2つの理由を挙げている。

一つは摩擦的失業(Frictional unemployment)と呼ばれている失業で、仕事を一度やめる/あるいは首になった後に、次の仕事を見つけるまでに時間がかかることから発生する失業のことだ。日本では一度働き始めたら、できる限り履歴書に穴を開けない方がいいと言われているが、レイオフがあるアメリカでは、そのような贅沢を言えないこともある。摩擦的失業というのはまさに、次の仕事を見つけるまでの一時的な(temporaryな)失業と言えるだろう。

一方で労働需要の方が供給よりも小さい場合に発生するのが、構造的失業で、これは一般的に長期間になってしまう。そもそも働き口が少ないがために発生している失業であるからこそ解決が難しいのだ。


● 職探し ●

摩擦的失業が発生するのは、次の仕事を見つけるまでに時間がかかるからというのが大きな理由となる。この次の仕事を見つけるという行為は、通常は雇用側の事由であることが多く、被雇用者側の問題であることはあまりない(被雇用者側は次の仕事が見つかってから、今の仕事をやめることができるから)。このような雇用側の労働需要の増減により働く場所が変わることは、雇用間の部門シフトと呼ぶ。

そして摩擦的失業が一定期間存在するのは、労働者が次の仕事を見つけるのがすぐにはできないからだ。昔はそもそも 仕事がどこにあるかもわからなかったし、応募書類を作るのも時間がかかった。そうであるが故に例えばインターネットの存在は摩擦的失業を減らす効果があると言える。

一方で公的な施策、例えば失業保険などは摩擦的失業にある期間を伸ばす効果がある。それは失業保険の受給期間中は一定の収入(働くよりも少ないが)が保証されているため、労働者は無理をして次の仕事を見つける必要がないからだ。

 

● 最低賃金法 ●

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多くの国で搾取的労働を抑えるという目的で設定されている最低賃金は経済学的な観点から言えば、労働需要を減らす効果があり、失業を生む必要の要因となる。それは右図の需要と供給の曲線を見れば明らかなように、最低賃金が均衡賃金より高いとすれば、供給と需要の間にギャップが生まれるからだ。

ただしこの最低賃金のによる雇用の減少は、賃金が最低賃金の付近にある職にのみ効果があると考えられる。

 

● 労働組合と団体交渉 ●

多くの国で認められている労働組合は、団体交渉を行い、時にはストライキを行うことで労働者の多くの権利を認めさせてきた。しかし経済学の見地からは、少なくとも労働組合の交渉の結果による賃金上昇は労働組合に参加している人員のみに恩恵があり、その分のコストを労働組合員以外の人員に支払われているとみなすことが出来る。

しかしそれでも、労働 組合が役に立つかどうかと言うのは、経済学者の間でも意見が一致していない。否定派は労働組合はカルテルと同じであり、水準以上の賃金が達成されたことにより労働需要量が減少してしまうと批判する。 一方で、肯定派は労働組合が存在することにより、企業の市場支配力への対抗策が生まれ、労働者全体の生産を向上させる可能性を指摘している。

 

● 効率賃金理論 ●

失業が発生する1つの理由として、効率賃金理論が存在する。これは企業が健康水準以上の賃金を支払うことによって、企業経営がより効率的になると言う理論である。一見すると矛盾した内容であるが、企業が賃金を高めにすることで利潤を最大化できると言うことなのだ。

この理由としては大きく4つの説明が存在している。
1つ目はより高い賃金を払うことで労働者が 健康を保つことができ、より生産性が高くなる可能性がある。 ただしこの説明は賃金が非常に低く均衡する賃金では、十分な食料や休息を手に入れることができないといった国の場合のみ当てはまる。

それ以外の3つの理由はいずれも労働者に関連することで、「 高い賃金を支払うことで離職率を下げることができる」「より質の高い労働者を採用することが出来る」「労働者の努力度を上げることができる(モチベーションを高めることが出来る)」といったものだ。

 

2024年3月 6日 (水)

いわゆる特性持ちが仕事にポモドーロ・テクニックを使ってみた

最近は歳のせいなのか、あるいは半永続的な減量を続けているせいで体力/集中力がなくなってきているせいなのかわからないが、夜になるとすっかりグッタリしてしまい何かをしようという気がなくなってしまうことが多い。夕方になって家に帰るとちょっと子供と遊んで、運動するとすぐに眠くなってしまうという感じなのだ。


流石にそれだと作業時間が足りないということ間違いなしだし、本を読んだりゲームをしたりなんかも出来ずに残念なことになる。そこで日常生活で消耗しすぎないようにしよう・・と最近になって取り入れているのが「ポモドーロ・テクニック」だ。これは簡単に言えば、タスクを細かく分解して一定時間作業や勉強をした後には休憩を入れるというサイクルで作業を進めるというやり方だ。詳しくはWikipediaに記載がある。



このテクニックは2009年に出版されたシリロの著書『The Pomodoro Technique』(どんな仕事も「25分+5分」で結果が出る ポモドーロ・テクニック入門)や、自身の公式サイト内で紹介されている。


具体的な手順は以下の通りである。



  1. 達成しようとするタスクを選ぶ

  2. キッチンタイマーで25分を設定する

  3. タイマーが鳴るまでタスクに集中する

  4. 少し休憩する(5分程度)

  5. ステップ2 - 4を4回繰り返したら、少し長めに休憩する(15分 - 30分)


ポモドーロの途中で急用が入りタスクが中断された場合は、そのポモドーロは終了とみなし、はじめから新しいポモドーロを開始する。



この手法は、本来は一つの作業に過集中して時間を使いすぎてしまい疲労をすることを避けるためにあるのだとおもう。ただ自分のように「気が散ってしまう」と「過集中」の間を行ったりきたりする特性を持つ人間の場合は、この方法は全く違った意味合いがあることが、実際にやってみてわかった。それは一言で言えば、インターバル・トレーニングのような効果があるということだ。

このポモドーロ・トレーニングは先ほども言ったように、本来は”過集中しすぎる”ことを防ぐために考案されたものだと思う。過集中は瞬間的には高い効果を発揮するが、やはり疲れは出てくるし、自分で気づかないうちに生産性が下がってしまうからだ。
ところが自分の場合には、この手法を使うことで「25分間は全力を一つのことに投入できる」という安心感を得ることが出来るのが大きい。どんなに集中していても一旦25分が経てばリセットしてくれるので、時間を気にすることなく、かつ他のメールや連絡方法などについても気を使わなくてもいい。この安心感から、その25分間に迷うことなく全力投入が出来るのだ。


インターバル・トレーニングなので25分間が過ぎた後は当然休憩が必要で、その休憩時間には頭を空っぽにするために、audibleをこまめに聞いたり映画を見たりをしている。妻に言わせると「それってちっとも休憩していることにならないのでは・・」となるのだが、自分にとっては頭の中に残っている残り滓を一旦全て洗い流してくれる効果があるのだ。
誰にでもお勧めできる方法ではないのだが、自分のような特性(過集中と分散の間が激しいタイプ)にはぜひ一回やってみることをお勧めしたい。

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