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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2024年4月 2日 (火)

外から読んで面白い官僚の仕事は中ではあまり評価されない: 金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿

日経新聞のコラム「私の履歴書」が人気コンテンツとしての地位をずっと保っているように、功成り名を遂げた人の回顧録は抜群に面白い。この「私の履歴書」は掲載されているのが日経新聞なので基本的にはビジネス界の大物が出てくる場合が多いが、時折政治家や官僚が取り上げられることがある。面白い割合を「打率」とすると政治家は大体が面白く打率8割ぐらい、ビジネスマンは5割、官僚は2割ぐらいだろうか。官僚としてトップに上り詰める人はリスク回避型の人が多いだろうから、どうしても面白い話が出てこないのかもしれない。

本書はそういった”リスク回避型”ではないタイプのキャリア官僚人生を取り上げた一冊だ。元官僚の方が自分で書いた本は自慢話が多く、ジャーナリストが書いている場合もヨイショが過剰な場合が多いが、本書はそういった自己礼賛型からはかなり距離が遠く、読んでいて素直に楽しむことが出来た。巻末にしっかりと参考文献が載っているように、著者がちゃんと二次情報・三次情報に当たっているからだろう。

そしてもう一つは、本書で取材対象となっている佐々木清隆という財務官僚(後半は金融庁)がいわゆるメインロードにはいなかったということが理由としてはある。開成高校 → 東大 → 国一をトップ合格という絵に描いたような学業エリートであるにもかかわらず、彼は大蔵省・財務省の本流を歩まずに、金融庁などの検査畑を一貫して歩いた人なのだ。傍流であるからこそ、その道を極めた人の話は面白い。
彼が長年所属することになる金融庁(1998年〜2000年は金融監督庁)は、自分が就職活動をした2004年は人気官庁の一つだったような記憶がある。内閣府の外局という位置付けとしてはやや低い場所にあったが、まだできたばかりの官庁で業務は面白く、かつ専門性が高いということが人気の要因だったように記憶している。

自分は官庁には全く興味がなかったのでそういった”人気/不人気”には全く無頓着で、「金融庁は何をやるところなんだろう」とぐらいにしか思っていなかったのだが、社会人になって銀行などの金融関係をお客さんに持つようになると、そのパワーの凄さを知ることになった。

本書はその金融庁、そして佐々木清隆が関わった多くの経済事件や大蔵省に関わる出来事が取り上げられている。36年もの間公職についていただけあり、この出来事のリストには大蔵省に対する過剰な接待(いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ」)から始まり、山一証券の破綻、 ライブドア事件、 村上ファンドの問題、新興市場の「箱」企業問題、そして仮想通貨までをカバーしている。自分が経済や政治を理解するようになったのがちょうど山一證券の破綻だったので、ほぼ自分の人生と彼の職業人生が被っていることになるわけだ。

この事件を追っていけばわかるように、金融庁(あるいは金融犯罪)のカバー範囲というのは、本書で言うところの流通市場(セカンダリー・マーケット)から発行市場(調達・株式発行)、そして非伝統的金融領域に広がっていったことがよくわかる。スタートアップの世界に長く身を置いている自分からすると、この流れというのはごく自然なもので、資本市場を守るためには発行企業までカバーするべきというのはむしろ当然にすら思える。そういった意味では、本書は一人の官僚の歴史を残しておくと同時に、今後の金融市場の規制・育成の方向性を示すものでもある。


ちなみに本書では、著者が佐々木清隆を取材すると決めた時に「あの人はやめておいた方がいい」と言われたというエピソードが紹介されている。著者は妬みもあったのだろうと書いているが、おそらくその推測は正しいと思う。何度か言及されているように、こういったタイプの官僚は「面白いアイデアはぶち上げるが、法的な緻密さには弱かったり、ロジ周りに弱い」という共通点があるからだ。

自分もいわゆるキャリア官僚には友達がいるのだが、こういったタイプの周りや下で働くと、それは大変らしい。ある意味でスタートアップの経営者のようなタイプで、遮二無二前に進んで行くので、後ろでゴミ拾いをしていく人が必要になるのだ。しかもこういったタイプは他省庁との細かい折衝や、政治家への説明はあまり上手くないことが多い。馬が合う人にはハマるが、そうでない人から見たら、適当に仕事をして手柄だけを取っていくように見えてしまうのだろう。

そういう意味では、こういったタイプが本当のTOPを取るわけではないと言うのは、組織としては健全なのではないかと思う。 文書も他の類書と同じく、前例踏襲的な官僚に対して批判的な表現がないわけではないが、その筆の勢いは決して強くない。著者も官僚の世界を長く取材する中で、様々な人間が組み合わさって仕事が進んでいくということをよく知っているのだろう。

自分も所属してる組織では、どちらかと言うとこういったゴミを撒き散らす人の尻拭いをすることが多いタイプなので、その苦労と怒りは共有することが出来るような気がする。まあ、 そのような仕事を続けるのが苦痛なので、自分で会社をやったりスタートアップに所属したりするわけで、妬みを感じる人には「大丈夫、あなたのようなタイプが大組織では最後には評価されるんですよ」と教えてあげたい気持ちになる。

 

2024年3月30日 (土)

コロナ禍を学習の機会とするために: 『1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録』

先日mRNAワクチン開発に関するドキュメンタリーを読んだから・・というわけではないが、日本におけるコロナ対策の先頭に立った尾身先生の本を読んでみた。我々一般人はワクチンが開発された段階でなんとなくコロナ禍は終わってしまった気がしていたが、対策に日々奮闘されていた方にとってはそれはまだ道半ばだったということが”1100日”というタイトルを読むとよくわかる。</ br> </ br> ちょうど家族の都合で病院に行った時にもまだ厳戒態勢は続いていて、コロナはまだ現在進行形の危機なんだなと感じたこともあり、あっという間に読み終わってしまった。以下は読んでいて気がついたメモから起こした備忘録になる。

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会議が多すぎて一般人にはよくわからない


自分はおそらく一般の人よりはニュースを多く見ているだろうし、行政に関する知識を持っていると自負している。その自分でも本書を読むまでコロナ関連でこれほど多くの会議が設定され、並行的に動いていることは把握できていなかった。参加されている有識者の方は「この会議は何のためにあるのか」ということを理解されてアジェンダを設定されていたのだと思うが、この複雑な会議体を初見で理解するのはほぼ不可能に近い。

本書では社会(=一般の人々)とのコミュニケーションについて悩むシーンが繰り返し出てくるが、この体制図を見ると、そもそもの体制から理解をするのが難しいと感じずにはいられなかった。それぞれの会議には根拠となる法律があるので仕方がないが、名称も含めて区別をするのが難しすぎる。一時、「コロナを2類とするか、5類とするか」で単純化された議論があったが、一般の人にとってはあれぐらい単純化してくれないとわからないのではないだろうか。


「ハンマー&ダンス」は難しかった


本書ではコロナ禍後期の対策の基本方針として「ハンマー&ダンス」という戦略を取ったということが繰り返し書かれている。 この「ハンマー&ダンス」と言うのは社会全体にコロナ対策疲れが広がってきた際に、基本的には対策を緩める(ダンスを許可する)一方で、 クラスターが発生する、あるいは医療逼迫の可能性が高くなる場合には対策を厳しくする(ハンマーを振るう)という戦略のことをいう。

この「ハンマー&ダンス」という戦略は理論的には良いと思うのだが、一般市民の観点からはあまり機能していなかったように思う。 まずこの言葉そのものを知っていると言う人間が少ないだろう。
日本独自の対策であり、やがて世界に広がった”三密”はコロナ禍初期に策定された戦略ということもあり、一般市民にも広く浸透していた。 しかしワクチンがある程度広まり、社会生活が元に戻りつつあった段階でのこの「ハンマー&ダンス」を意識して行動した人がどれほどいたかというと、あまり実例を見つけるのは難しいのではないだろうか。実際に自分もこの戦略を意識して行動したとは言い難い。

また現実的にも、いきなりハンマーを振られても対応できないと言うのはあったと思う。明日から、あるいは来週から行動制限してください・・と言われても、日常生活のサイクルを変えられるのは、それこそリモートワークが完全に可能な職種ぐらいではないだろうか。 日常生活を取り戻したいと言う社会的経済的な圧力と、コロナ対策を両立させる方法として立案された戦略だったと思うのだが、現実には適用が難しかった戦略だったと判断している。


情報の取り扱いや意思決定が軽い


本書を読むと、特にコロナ禍の後半では政府の情報の取り扱いや意思決定が非常に軽かったのが目立ってくる。 日本ではこれまでも、そして現在も日々当たり前のように事前リークが行われているが、政治や行政では既成事実を作って物事を進めると言うのが1つの様式になってしまっているように見える。

また実際には専門家に相談していないにもかかわらず、専門的な知識から決定したと言うのは、厳密には嘘のわけで、この辺もわが国の政治における言葉の軽さが如実に現れていると感じた。
本書が書かれた理由の一つでもあり、専門家の奮闘を支える原動力の一つとなっていたが「対策は最終的には歴史が判断する」という価値観だ。言葉が軽い、あるいは情報の取り扱いが軽いという人の価値観はいわばその対局にあるわけで、究極的には「今を生きる」政治家や官僚と、「歴史の一部である」専門家たちの価値観と違いがそこにはあったように思う。もちろん個人的には、自分は後者にシンパシーを感じているのは言うまでも無い。


医者も職業の一つであるのに、我々は無理をさせすぎたのではないだろうか


本書に書かれている内容の中で、一般市民がコロナ禍において理解できていなかったと思われることの一つが、多くの対策が現場の関係者の努力によって支えられており、彼らも「一人の人間」ということだ。もちろんそのこと自体はメディアでも繰り返し報道されたし、特にコロナ禍当初は多くの感謝の声が上がったように、多くの人が意識していたことだと思う。

しかし時間が経つにつれて、本書でも書かれているように医療関係者の頑張りへの理解というのは薄まっていった。そしてその傾向は、実は医療関係者の中でもあったようなのだ。それがわかるのが、JCHO傘下にある病院がコロナ病床を拡充した際に多くの医者・看護師が辞めてしまい、そのことに院長が「こんなに辞めてしまうとは思わなかった」と驚くシーンで、自分が本書を読んでいて一番驚いたのがまさにこのシーンだった。

当たり前だが医療関係者(我々から見るとお医者様だが・・)も自分のキャリアや生活を守る権利がある。医療関係者全てがコロナ(感染症)を専門にしたいというわけではないだろうし、 自分の家族を犠牲にしてまで医療に関わりたいと思う人ばかりではない。そういった当たり前の事実、医療関係者も市民であるということを”見ないふり”していたというのが、コロナ対策の一面の真実であるということに改めて気付かされた。


専門家は守られなければならない


上のテーマと関連して、本書では専門家たちが一般の人たちから脅迫を受けたことが何回か触れられている。 このこと自体はSNSで言及されることが多かったのでよく知られた事実だが、本書を見ると専門家にとっても大きなストレスになったことがよくわかる。

専門家が社会から敵視され、あるいは脅迫の対象となったのは、本書でははっきりとは言い切っていないが間違いなく政治と行政の責任だ。 本書で繰り返し述べられているように、専門家はその専門的な知識を持ってアドバイスを行う、あるいは提言を行うことが仕事であって、実際の決断を行うのは彼らの仕事ではない。この線引きは、彼らが仕事をする、あるいは政策を決定し実行する上での大前提であり、そのような前提を壊してしまった政治や行政、そしてメディアの責任は重い。

心配なのは、すでに74歳になる尾身先生の世代であれば このような脅迫にも負けず仕事を完遂してくれたかもしれないが、例えば我々40代の人間が同じような覚悟で物事に取り組んでいけるかということだ。我々の世代は2011年の東日本大震災からずっと、真の専門家があっという間にメディアによって、あるいはSNSを通じて「炎上」させられるのを見てきた。そしてその裏側で科学的な、あるいは専門的な知識がなくてもPVを稼げるような「芸人」が持て囃されてきたのも。

そういった経験を一度だけでなく何度でもしてしまうと、もはや個人にとっての最適解は、専門知は自分のためだけに利用するという姿勢を維持することになってしまう(自分の友人でもそういった人間は大勢いる)。しかしそのような状況は、社会にとって望ましいことではない。
だからこそ「何かことがおこった」時に専門家は守られる必要があるのだ。本書はその当たり前の前提が揺らいていることを、その渦中にあった専門家が記したという意味で貴重な一冊になっている。

 

2023年11月16日 (木)

巨大企業は国を守るための盾となれるのか: 書評 半導体ビジネスの覇者 TSMCはなぜ世界一になれたのか?

熊本に巨大工場を建設すると発表して日本での知名度が一気に上がったのが、台湾のファウンドリー企業のTSMCだ。正式にはTaiwan Semiconductor Manufaturing Company(英語)/台灣積體電路製造股份有限公司(繁体字)/台湾集成电路制造股份有限公司(簡体字)という名称のこの会社は、現代の製造業においては最も重要な部品である半導体の製造を専門に手掛ける会社だ。

かつては世界市場を制覇する勢いだった日本勢が日米半導体摩擦により力を失った後に、TSMCは製造に特化することで市場を切り拓き、今では半導体製造のサプライチェーンの鍵を握る存在となった。本書でも書かれているように、半導体業界において設計から製造までを全て一貫して自社で行なっているのは今では韓国のサムスンと米国インテルだけになってしまっており、製造を手掛けているファウンドリーがなければ、半導体を市場に送り込むことが出来ないのだ。

つい最近もコロナ禍と、ロシアのウクライナ侵攻による世界的なサプライチェーンの混乱により半導体の供給が安定しなくなり、冷蔵庫から車まであらゆる製造業のラインが混乱した。我が家も調子が悪いので洗濯機を買い替えようと思ったら、ドラム式はいつ納品できるかわからないと言われてしまい、結果として日本に帰ってきてから初めて縦置き型を買うことになった。むしろ壊れにくくなったのでモノ自体には大変満足しているのだが、まさか日本にいて電化製品が買えなくなる日が来るとは思っていなかったので、店頭で驚いた記憶がある。

本作は電化製品だけでなく、車やパソコン、スマホまでありとあらゆる製品に必要不可欠な半導体製造で世界最大の企業、台湾の誇りと言われるTSMCを取り上げた一冊だ。


著者の問題意識と台湾の状況

あからさまなヨイショ本でない限り、ジャーナリストが企業を取材して一冊の本をモノにするときにはなんらかの問題意識、もっと簡単にいえば「伝えたいこと」があると考えるのが普通だろう。本作においては、現在国際政治と台湾の置かれた状況がその問題意識にあたる。

なぜ著者でもない自分が問題意識はそこにあると言えるのかといえば簡単で、冒頭からTSMCは台湾にとっての護国神山であるとはっきり書かれているからだ。これは台湾の表現をとってきたものだが、簡単にいえば「TSMCは台湾という国を守る(護国)巨大な存在(神山)」だ・・ということを指している。

一つの企業が国を守るというのは言い過ぎではないか、と普通なら思うところだが、先ほど書いたようにTSMCは半導体製造では世界一のシェアを握っている。そして半導体がなければ多くの製造業が自社製品を作ることが出来ない。言い換えてみれば、自動車産業を含む製造業にとってTSMCは不可欠な企業であり、その工場が集中する台湾は、多くの製造業を抱えている先進国にとって欠かすことが出来ない存在である。そのため、台湾に何かしらの問題が起こった時には自国の経済を守るために、彼らは台湾を守るだろう・・これが著者の論理なのだ。


台湾でこの「自国防衛にとってTSMCのような存在は有益である」という議論がなされるのは、防衛費を急速に拡大させている対岸の中国の存在がある。改革開放以降では初めて3期目に入った習近平は、いまだに台湾統一は中国の夢であると言って憚らない。これから不良債権により長期の景気低迷と人口減少により国力増大のピークが過ぎた中国が、まだ力のあるうちに台湾統一を仕掛けようとするというのは、台湾にとっては現実的な課題なのだ。

そして国土や人口、経済力といったあらゆる要素を比較しても、台湾が単独で中国と戦うことは不可能だ。現状ではアメリカが台湾防衛に姿勢を見せているが、極限状態では何が起こるかわからない。そこで台湾としては少しでも日本やアメリカ、広い意味での旧西側諸国との連携が必要であり、TSMCはその鍵となる存在だと考えているのだ。


本書の良いところ: 丁寧に事実と数字を追う姿勢

著者の問題意識がそのような安全保障にあるといっても、本書は国際政治や台湾の安全保障を主要なテーマとはしていない。本書で描かれるのはその国際状況を背景としつつも、「そのように重要な存在なったTSMCとはどのような企業なのか?」という現状、「台湾といった小国でそのような巨大な企業が生まれた理由はなんなのか?」といった過去の分析、そして「TSMCは今後その地位を維持できるのか?」といった未来の展望だ。言い換えれば、本書はあくまで企業体としてのTSMCを主要なテーマとして設定している。

日本ではこういった企業に関する本をジャーナリストが書く場合には、どうしても内容の薄いヨイショ本になってしまうことが多い。対象である企業から悪く思われたら今後の取材が難しくなってしまうことは容易に想像できるし、そもそも出版の圧力がかかる可能性もある。大企業は同時に、多くの場合は雑誌を出している出版社にとっては大広告主でもあるのだ。

本書の場合も、残念ながら過剰にTSMCという企業を称賛しているという面は否めない。実際に好業績を上げ続けているのだから褒める部分が多くなるのは仕方ないにしても、あまりにも企業側の言いたいことをそのまま書いているという面はある。

しかし本書が似たような日本のヨイショ本とは異なるのは、技術的な側面をしっかりと書いていることだ。日本の場合はジャーナリスト本人が理解できないのか、あるいは読者が舐められているのかはわからないが、技術的な部分は数字を使われることが多い。しかし本書では半導体という理解が難しい分野においても技術的なことをしっかりと記述をしている。一般の人よりはこの領域の知識はあるだろう自分でも調べながらの読書となったのだから、知識がない人にとってはかなり辛い部分もあるだろうと思う。それでもしっかりと数字を記載している本書は、自分にとっては読者に対して誠実であるという印象を持った。

また本書内で、TSMCの初期の成功に関しては「運の要素が強かった」とはっきり書かれていることにも好感を持った。どうしても成功した未来から見ると、さまざまな不確定要素があった創業期も含めて、全てを決定論的に書きたくなってしまう。実際には人の縁や、外部の意思決定の失敗などの幸運があったにも関わらずだ。


本書の悪いところ: アジア式のジャーナリズムの影響

一方で本書の悪いところも極めてはっきりしている。それは、あまりにも公的な情報やメディアの発表に頼りすぎていて、「生の声」が全くないということだ。日本のジャーナリズムでもよく指摘されることなのだが、台湾でも同じ状況なのか・・・と知って、正直にいってかなり衝撃を受けた。

米国でジャーナリストがあるテーマについて本を書く時に、公的な発表だけに頼るということはほとんどない。本書のような内容であれば、必ずTSMCに働いている人にインタビューをする、あるいは退職者にインタビューをするというのは必ず行なっただろう。個々の人間が嘘をつくことはもちろんあるが、少なくとも公式発表だけを拠り所にするよりもはるかに奥行きのある記事が書けるからだ。

自分の場合は台湾人に友人が多いということもあり、実際に本書を読んでいる最中にTSMCについて聞いてみたりもした。そうするとやはり、本書で書かれていないような感想が次々と出てくる。例えば「幹部以上になると、24時間電話に出ないといけない職種もある」とか「ラインが止まると会社に泊まり込みをしないといけないことがある(本書では競合のサムスンの悪い部分と書かれているのと同じだ)」、あるいは「TSMCに入るというのは、少なくともその期間の家族生活を犠牲にするということと同じ意味だ」といったようなものだ。

もちろんこういった感想も一面しか捉えていない可能性は高い。自分の友人たちはビジネススクールをでた、いわゆるビジネスエリートであって、理系のエリートたちではないからだ。それでもそういう声があるという事実は、やはり個々の声を集めるのは重要だということを意味していると思う。
全体としては日本人にはよく知られていないTSMCについて丁寧に記載されているし、事実に基づく部分もたくさんあるだろうからこそ、大本営発表のヨイショ本と捉えられてしまうような部分が散見されるのが残念だった。

 

2023年11月11日 (土)

鉄火場じゃないと飽きちゃうタイプのリーダー: 書評 ソニー再生 変革を成し遂げた「異端のリーダーシップ」

ビジネススクールから帰国した時にSCE(Sony Computer Entertainment: 現在のSIE)への就職を考えたように、ゲーム好きの自分にとってはソニー本体よりも、PlayStationを出しているSCEの方が心惹かれる存在だった。本書はそのSCEの社長を務めた後にソニー全体の社長となり、経営改革と業績のターンアラウンドを成功させた平井一夫元社長(現: シニアアドバイザー)の自伝。平易な言葉で書いてあるし、アメリカで出版される同様の本に比べてページ数も少ないため、あっという間に読み終わってしまった。

ちなみに本作を紹介しようとAmazonを見たら「書影付きリンク」の生成ができなくなってしまっていた。これからは画像なしで紹介するしかないみたいだ。。


日本人らしいリーダーシップ本

大企業の成功した経営者の本を読むと、当たり前だが「なんでも俺がやった」と書いてあることはまずない。全てを一人でやるには大きすぎる会社を率いていたのが実際のところだろうし、たとえ「大部分は私のリーダーシップだった」と思っていても、やはり従業員が優秀だった、右腕が素晴らしかったと書くのがリーダーに求められるものなのだ(たとえ自我の強いアメリカ人であったとしても)。

ただし、そこから先の細かな内容になるとアメリカのリーダーと日本の経営者では書く内容が大きく変わってくる。アメリカの大企業の場合には各事業の自律的な成長という以上に、企業のポートフォリオマネジメントや新規事業への進出といったことが求められるために、自然とM&Aの話が増えてくる。最近では抜群に面白かったディズニーCEOのボブ・アイガーの伝記も後半はM&Aの話が多かった。
一方で日本の経営者の話では、基本的には現場を回って話を聞き、持っている力を解放したという話が圧倒的に多い。自分のしたことはあくまで“従業員の力を解放させた“ことであり、何か大鉈を振るったというわけではないというわけだ。

本書もその傾向は同じで、著者はソニーの持つ底力、あるいはマグマのような熱量を開放しただけだとくり返し書いている。実際には本書で触れているようにPCのバイオブランドを売却したり、テレビでも数を追わない= シェアを追わないというかなり大きな意思決定をしているのにもかかわらずだ。著者のようなタイプは、おそらく思っていることと書くことを分けるということはしないタイプだろうということを考えると、本気で自分の役割は従業員の能力を解放したことだと思っているのだろう。


OBの話を聞かないという姿勢

ソニーが経営危機だった時、あるいは著者が最初の数年間苦戦していた時、多くのメディアで「平井叩き」のような記事がたくさん出ていた。本書内でも、エレキがわからない人間が経営者になったと言われた、と書いてあるので直接言われたこともたくさんあったのだろう。前任者のストリンガーもエレキ出身ではなかったし、さらにいえばその前の出井も大賀も技術者ではなかったのだから、これは言いがかりみたいなものだろうと個人的には思うのだが、とにかくネタを見つけては著者を叩きたいOBがいたことはたくさんいたことは想像に難くない。

その「平井叩き」の期間に全く関係のないニュース読者でしかない自分が思っていたのは、ソニーという会社はOBが喋りすぎるということだった。外資系にいた自分にとっては、OBとなった経営幹部は現在の経営陣に対して口を出さないというのが基本だと思っていたので、これだけでもソニーは上手くいっていないと思ったものだった。不思議なもので、全ての日本企業でOBがやたら話すということはないので、会社の文化やカラーというのが影響しているのだろう。なんとなくだがソニーとかホンダとか、とにかく個性が強い会社ではOBがその情熱を抑えきれないのか、文句をメディアで言う傾向が強いように思う。

著者もそういったことは感じていたようで、わざわざ自分に会いに来るOBとは基本的に会わなかったと書いてある。設立趣意書の信念は素晴らしいと書いている一方で、経営はノスタルジーでは出来ないともはっきり書いていると言うことは、心の中では「文句を言っているあんた達がこうしたんだろう」という思いがあったんだろうと想像している(実際にそれに近いことは書いてある)。その開き直りというか、いい意味での無神経さがターンアラウンドを成功させた一つの要因であることは間違いない。


平常時のリーダーではないという認識

本書で繰り返し書かれているのは、平井一夫というリーダーは「平常時のリーダーではない」ということだ。
彼のそれほど長いとはいえないリーダーシップのキャリアの中では、SCEA(ソニー・コンピューター・エンターテインメント・アメリカ)、SCE、そしてソニー本体という3回の立て直しを成功させている。異なる場所、異なる領域で、少しずつ対象となるスケールを拡大させていったというのはまるでビジネススクールの教科書のようだが、特徴といえるのは、立て直しに成功するとすぐに次の舞台が用意されているということだ。

名経営者と言われる人間は、普通はそれなりの長さ・・大体は短くとも10年弱を一つの会社の経営に費やしている。大きな組織の変革は時間がかかるものだし、危機モードの脱出 → 安定運行の確立 → 新たな戦略テーマへの取り組みというのをやろうと思えば、それぐらいの時間がかかってしまうからだろう。組織の上の方に行けば行くほど自由に戦略をやりたいと思うのが人情なので、せっかく選択肢が多くなった段階で次に渡すというのはなかなか難しい。

ところが著者の場合、危機モードの脱出がうまく行き、安定航行がある程度できた段階で”飽き”を感じ始めてしまうのらしいのだ。より正確にいえば”自分がいなくても回るなら、自分は必要ないのでは”と感じるらしい。
こういった感覚は言い換えると「オペレーションをうまく回すのは自分の仕事ではない」ということなのだろう。音楽会社(CBSソニー)に入ろうと思ったというぐらいなのだから、おそらくプロジェクト型の仕事が好きで、毎日オペレーションをメンテナンスするというのはそもそも好きではないのかもしれない。

いずれにしてもそのような感性・志向を持っているからこそ、うまく行き出したソニーの経営もあっさりと後任に引き継いでしまったらしい。上にも書いたようにソニーというとOBが口を出すような文化だと感じていただけに、その引き際はより一層あっさりとしたものに見えた。

 

2023年10月19日 (木)

[書評]仮説とデータをつなぐ思考法 DATA INFORMED(田中耕比古)

著者とは10年近くの友人であり(正確には先輩)、最近お会いした際にこちらの本をいただいた。献本いただいた場合には書評を残すのが礼儀・・なのだが、本書についてはそういった貸し借りなしで記録をしておきたい一冊だった。何せ世の中にあるビジネス本とは、そもそもの目的からして違うのだから。

ホームランより打率

世の中に数多あるビジネス本は大体以下の3つの種類に分かれると個人的には思っている。
  1. いわゆる「すごい人」の伝記や考え方を本を読むことで学ぶ
  2. アカデミックから生まれた、あるいはコンサル業界で生まれた先端・最新(に見える)知見を学ぶ
  3. フレームワークや思考法などの考え方を学ぶ

この3つの種類の本はアプローチこそ違えて、いずれも”他のビジネスパーソンよりも優れた成果を出したい”という人向けに書かれているのは変わらない。資本主義が競争である以上、やっぱり人は他の人よりも優れた成果 = ホームランを打ちたいと思っているのだ。

ところが本作の特徴と言えるのは、その考え方を徹底的に排除していることだ。著者が本書で一貫して語っているのは、「データを上手に使う能力を身につければ”再現性”が高まる」ということなのだ。言い換えてみればホームランよりも打率主義。さらに極論を言ってしまうと、本書のアプローチだけでは再現性は高まるかもれないが、成功は約束されていない。ただひもちろん本書のアプローチを使って、成功する = ビジネスで成果を出すための方法も後半にはしっかり書かれているので、その点は安心してほしい。


データは「わかっていることを見えるようにすること」

2つ目の本書の特徴は、いわゆるビッグデータについて著者が夢を全く見ていないことだ。ビッグデータ(あるいはカタカナになる前のBig Data)の概念が出始めた頃には、”これまで取れていないデータを取れるようになることで、何か凄いことができるんじゃないか”という期待がIT業界やコンサル業界には溢れていた。・・・少なくとも、そういう期待を作ろうと業界ではしていた。

ところが実際にたくさんのデータをとって解析してみると「そんなの知ってたよ」とか「意外に普通の結果しか出ないんだね」という感想が多かったのだ。少なくともビッグデータブームの当初は「これまで断片的に取れていたデータが、以前よりもたくさん取れるようになった」ぐらいしか変化がなかったのだから、考えてみれば結果もそれほど突飛なものにならないのは当たり前なのだ(※)。ビッグデータで本当に必要なのは「これまでは人間が何となく知覚していたが、数値では表現できなかったこと」をデータ化することなのだ。これはビッグデータが話題になってからしばらく経って、IoT機器が安価になることでようやく実現が見えつつある(が、同時に純粋なデジタル空間のデータ量は爆発的に増加しているので、昔のビッグデータは今ではちっともビッグでははなくなってしまったという問題がある)。

本書ではそのような人間には知覚できていてもデータでは取得できていなかった、いわゆる暗黙知をKKD(勘・経験・度胸)と呼んでいる。そしてデータが出来るのは、次の3つであると主張する。
  • KKDをデータを用いて個人に閉じない形まで昇華する
  • 経験のない人間=KKDがない人間も、データを使って気づきを得ることができる
  • KKDをデータを使って証明する

こう言われてみると、ベテランは自分のKKDをデータによって補強できるし、若手はKKDを使って優位に立とうとするベテランに対してデータで戦えるようになる・・みたいな姿が想像できる。もちろん本書ではもっと上等な書き方をしているのだが、データを用いて戦闘力を高めるというのは、要するに年齢とか経験の差を理由にできなくするということなのだ。


必要なのは「解釈する力」と「言語能力」

本書でも繰り返し書かれているように、ビッグデータの利用というとどうしてもその処理の方に頭が行きがちになる。少し前に統計関連の本が売れる時期があったが、あれもいってみれば統計的なリテラシーを学びましょうということで、広い意味ではデータ処理の枠内での話だった。

ところが著者は、こういった能力はデータ利用を“駆動“する力であって、成果を出すための方向性を生むことにはならないと主張する。確かにデータはどこまで行ってもデータであって、例えば「今年の売り上げはXXセグメントではYY%下がりました」みたいな話をされても、So What?となってしまうだけだ。大切なのは、そのデータが表現する結果になった理由を明らかにしたり、あるいはそのデータで読み取れた結果を持って何をするかを考えることなのだ。そしてそのような役割であれば、何も大学で数学を専攻していたり、統計の専門家である必要はないというのが著者の言いたことなのである(著者は私立文系卒でデータを用いた会社の取締役を務めているのだから、説得力がある)。

このみんなが必要と言っているテクニカルなスキルがなくても(あったほうがいいが)、十分にデータを用いて戦うことができますよ、安心してくださいという主張が本書の3つ目の特徴と言えるだろう。言い換えると三角関数が嫌で、とか、代数が不明すぎて、という理由で数学から脱落した人にも、データを利用することができるのだという希望を与えてくれるのが本書なのである。

個人的にはこの点に関しては、自分のような理系人間の方が得意なのでは・・と思うのだが、確かに文系だからという理由でできないということはないというのは同意できる。ただし大学院レベルで数学や統計をやっていた人間はそもそも頭の中ではモデルや数式で考えていることが多く、それを言語化するというトレーニングを日常的にやっているので、やっぱりその点は理系の方が有利かもしれない。


もちろん本書は上に書いてきた以外にも実用的な内容も多く含まれているし、その内容からも著者の個性が滲み出ている。例えば戦略とオペレーションが階層構造ではなく、並列/時系列的に記載されているのは著者が実際に企業を経営している立場から見ているということだろう。またコンサル出身者の方が仮説という言葉を使うときにassumptionとhypothesisの違いがあるというのは、我が意を得たりという感じで嬉しくなってしまった。

数式は全く出てこないし平易な言葉で書かれているので、その気になれば1日で読み通すことができてしまう分量だが、書かれていることは時間をおいて繰り返す読むほうが味わいが出るだろう。一回読んで、俺知ってると想わずに手元においておくことをお勧めしたい一冊だ。


※・・・例えばランダム抽出で取得していたデータを全数取得に変えても、それほど結果は変わらない。以前在籍していた米系IT企業では「統計に埋もれた傾向を全数取得で浮かび上がらせる」というアプローチを展開していたが、対象が小さすぎてビジネスにインパクトを与える規模にはならない・・という当たり前のことがわかっただけだった。

 

2023年8月 6日 (日)

大衆皆喜に関わった人間による”『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム”の感想(5/5) : 大衆皆喜はなぜ撤退したのか?

(その1その2その3その4から続きます)

ゼクシィという媒体のメディア的な変遷を辿る「ゼクシィのメディア史」の最後の章では、著者の 故郷である中国において発行されていた大衆皆喜ぶについて取り上げられている。日本での成功モデルの輸出に失敗したとして概ね評価としては否定的であり、実際に撤退をしていることからもその評価については妥当であると言わざるを得ない。一方で著者がその根拠として挙げているのは主に編集コンテンツであり、これまでも書いてきたようにビジネスとしての側面は考慮がされていない。またその編集コンテンツについても、明らかな誤解がある部分も存在する。この感想の最後に、実際に大衆皆喜に一時関わったものとして、その点を指摘しておこうと思う。


編集コンテンツの提供タイミングについて

本書では大衆皆喜(以下わかりやすく中国ZEXYとする)の編集コンテンツの変遷とポリシーが次々と変わっていった点に対して、どちらかというと否定的なスタンスで評価を行っている。撤退したという結論、そして本書のスタンスを考えれば、市場やカスタマーのニーズに合ったコンテンツを提供できなかったということに関して厳しい評価になるのは仕方がない。

ただしその評価の中で事実誤認をしている部分があったので、その部分は明確に指摘を行っておきたい。それは、中国ZEXYではコンテンツを出すタイミングが発行タイミングの関係で遅れてしまい「情報の鮮度」が日本と違いがあったという点だ。
確かに創業者の江副は、情報誌ビジネスにおいては「情報の鮮度」が非常に重要であるということを言っていたし、当時のリクルートにおいてその感覚は事業を問わずに維持された感覚であったと思う。ただしここでいう「情報」は、編集コンテンツではなく、クライアントから提供された広告情報のことを指しているのだ。

マッチングという事業形態を考えればわかる通り、広告情報はなるべく最新のものをカスタマーに提供することが望ましい。求人であればポジションが埋まってしまうかもしれないし、枠があるような商品の広告(たとえば不動産)であれば先着が重要になる。
一方で編集コンテンツについては、そこまでの新鮮度は求められていないというのが正直なところだ。確かに季節性があるものはコンテンツを出すタイミングが重要になるが、本書でも記載されている通り、そもそもZEXYは編集コンテンツのテーマを数カ月ごとにローテーションしていた。 言い換えれば多くのコンテンツは明確に時期を決めて”出す必要のない”コンテンツだったということだ。このことと合わせて考えても、少なくとも発行タイミングが異なるということが中国ZEXYの道のりを決定する上で、重要な要素になったとは考えられない。


中国ビジネスでの最大の困難

それでは中国ZEXYが撤退をした理由はなんだったのだろうか、という疑問が出てくる。もちろん本書に挙げられているような編集的な側面も合ったことは間違いない。編集コンテンツとは結局のところ、リボン図におけるカスタマー側を”動かす仕組み”に他ならないからだ。しかし、その4で書いたようにリクルートは情報誌をビジネスとして展開している。言い換えれば事業継続の意思決定は、結局のところビジネスとして成立するか、あるいは今後の成長が見込めるか否かにかかっている。

ビジネスとして成立していると判断し、かつ今後の成長が見込めるかどうかの予想をするためには、複数の要素を検討しなければならない。一方で事業継続のための要件というのは、意外にシンプルでもある。一言で言えば「その事業は自分たちでかかるコストを賄えているか」だ。

少なくとも自分が在籍していた期間においては、中国ZEXYはこの点でまず非常に難しい状況にあった。波があるとはいえビジネスは少しずつとはいえ成長しており、自分が作ったようにネットなどのチャンスも存在した。しかし実を言えば当時最も難しかったのは、商売の基本である「売上を回収する」という点だったのだ。

中国ビジネスに関わっている人であれば知っている通り、中国では支払いサイトが非常に長い。日本では請求書の受領から翌月払いか遅くとも翌々月払いというのがある程度スタンダードになっているところが多いが、中国では数ヶ月先の支払いというのはごく普通だ。その上、中小企業の場合には支払いが遅れたり、あるいは支払い期日が来る前に倒産(あるいは夜逃げ)をしてしまうということもある。中国ZEXYの対象としていた企業も中小企業が多く、そういった企業は請求書に沿って振り込みをしてくれるというところは少ない。営業担当がしっかり入金まで確認をして、支払い催促に行かなければ払わないというところが多いのだ。そして催促をしても100%払ってくれるわけではない。

こういった未払い(あるいは売上未回収)というのはボディーブローのように効いてくる。中国では外国企業に関わらず黒字倒産というのは普通に起こるのだが、 これを避けるためには営業やあるいは会社全体で資金回収をしっかりマネジメントしなければならない。残念ながら当時のリクルートにはそういった中国のビジネス環境の経験がほとんどなく、資金回収にはかなり手こずっていた記憶がある。

ビジネス環境の違い

上に書いた資金回収の問題に加えて、日本のゼクシィと中国ゼクシィでは環境が大きく異なる点が2つあった。一つは外資が情報誌ビジネスを展開するための規制であり、もう一つは急速なネット化だ。

まず前者の規制について説明しよう。中国では当時雑誌を出版するにあたっては「刊号」呼ばれる登録番号を取得する必要があった。この刊号は外資系には提供がされておらず、内資の出版会社にしか割り当てられない。しかも申請をすれば取得することが出来るものではなく、割り当て数に上限があった。本書でも取り上げられているような中国国内での展開スキームは、この刊号に関係する部分もあった。
詳細なスキームを紹介するのは避けるが、当時外資系で出版関係のビジネスを展開する企業はこの「刊号」を内資企業から実質的に”借りて”ビジネスを行うことが一般的だった。ただし、この方法は当時の中国ビジネスによくあるようにグレーな領域に属していたといっていい。リクルートが日本で上場するにあたり、この事業が問題になったかどうかについては、自分はすでにリクルートを離れてために知らない。だが、上場にあたってリーガルリスクを洗い出した際に、少なくとも何かしらの注意が向けられだと考えるのは当然だろう。


もう一つは本書でも取り上げられているように、中国では急激なネット化が進んでいたという事実だ。そもそも中国では日本のようにコンビニや本屋で雑誌が売られているということはあまりなく、雑誌や新聞は日本でいうところの「キオスク」のような街頭のスタンドで購入するものだった。そのため人口に比べて雑誌/情報誌の発行部数が少ないというのは、事業開始時点でもわかっていたことだった。

その情報の空白を埋めたのがインターネットだった。当時はまだスマホはなかったが、いわゆるガラケーでも情報はかなり流通していたし、ネットカフェのようなものも多く存在した。本書に書かれている通り、紙の情報誌では圧倒的なブランド力を持っている日本でも、ZEXYはインターネットで同じようにブランド力を構築することができなかった。本屋やキオスクなどの物理的な「面」を抑える情報誌ビジネスとは違い、インターネットは無限に情報を発信することができるからだ。

中国においても同じような問題は常に存在していた。その上、大衆点評のような口コミサイトも急速に盛り上がっており、中国ZEXYがブランドを構築するにはかなりのリソースを必要としていたのは間違いない。外資系企業に対してはインターネット上でのビジネスには制限がかかっていることもあり、成長し続ける競合と戦うのは難しいとリクルートが判断したとしても不思議ではない。

撤退という判断は、上記のように様々な問題を総合的に考慮しての決定だったと思う。そしてこの”撤退という学び”により、リクルートという会社は自前で情報誌/マッチングビジネスを海外で展開するという試みは事実上放棄し、M&Aによる海外展開という道を選ぶようになる。そして現在では、マッチングビジネスを海外で展開するためのM&Aもあまり試みてはおらず、海外ビジネスは派遣会社の買収とIndeedの展開を進めている。自分の中国ZEXY/大衆皆喜での取り組みは、リクルートの歴史においては失敗というカテゴリーに属する結果になったということだ。ただ個人的には、そこから中国での生活がはじまり今に至るわけで、自分の決断が失敗だったとは全く思わない。

 

全5回にわたって「『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム」を題材にして、ZEXYというビジネスについてグダグダと書いてきた。改めて強調したいのは、自分の指摘はビジネスという側面から著者の研究に対してコメントを付け加えたということであって、著書及びその元となった論文を批判したいというわけではないということだ。むしろ「『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム」は、自分のようなビジネスを主戦場にする人間にとっては新鮮な視点を提供してくれる、素晴らしい一冊だった。



2023年7月14日 (金)

大衆皆喜に関わった人間による”『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム”の感想(4/5) : リクルートのビジネスモデルはプラットフォームか?

(その1その2その3から続きます)

ゼクシィという媒体のメディア的な変遷を辿る「ゼクシィのメディア史」は、当初は情報誌として出発したゼクシィがプラットフォームへと志向を強めていったという主張を展開している。論文内におけるプラットフォームという概念が明確に定義されていないために、その論考の解釈が間違っている可能性があるが、少なくとも”情報誌(メディア)”の概念とはかなり異なっている可能性の方が高いということを指摘しておきたい。


プラットフォームとは何か

プラットフォーム(Platform)を活用したビジネス、いわゆるプラットフォーム・ビジネスについて全世界共通の明確な定義が存在するわけではない。日本語のWikipediaにはプラトフォームビジネスの項目が存在するが、他言語が存在していないことを考えると、少なくとも共通の概念が全世界的に共有されているわけではないと考えても良いだろう。

一旦ここでは話をわかりやすくするために、このWikipediaの項目に沿って話を進めいくこととする。Wikipediaによれば、プラットフォームビジネスには四つの類型があるという。

  • 仲介型
  • オープンOS型
  • ソリューション提供型
  • コミュニケーション・コンテンツ型

またその収益設計においては、次の五つが存在すると解説されている。

  1. 手数料課金モデル
  2. 月額課金モデル
  3. 従量課金モデル
  4. 付帯事業売上モデル
  5. フリーミアムモデル

リクルートは様々なビジネスを提供しているので、このプラットフォーム型ビジネスの定義にかなり近いビジネスも現在は存在している(例:Airシリーズ)。しかし当時から今に至るまでの伝統的な情報誌モデルを振り返ってみると、ゼクシィのビジネスは広告掲載型ビジネスであり、プラットフォームと定義されているようなビジネスモデルは採用していなかった。あえて上記の類型に当てはめようとすれば、仲介型 - 月額課金モデル/従量課金モデルが該当するだろうか。しかし、少なくとも2010年代の中頃までは、ゼクシィはリクルート得意の「情報誌モデル」が最も近しい定義であったと想定される(ゼクシィカウンターはちょっと違うが・・)。

 

ゼクシィという”箱庭”での競争

「ゼクシィのメディア史」でも取り上げられていたが、ゼクシィという媒体をNew-Ringと呼ばれる新規事業開発プロセスを通じて立ち上げたのは渡瀬ひろみだ。しかしビジネスとしてリクルート自身の想定よりもはるかに巨大な規模にまで押し上げたのは、のちにリクルート社長を勤めた峯岸真澄だ。彼はゼクシィの成功により有力な経営幹部候補となり、やがて社長へと駆け上がっていったのだ。ちなみに私は、リクルート時代に峯岸と何回か話したことがある・・という程度の距離感だった。

その峯岸が社内の勉強会で語ったところでは、創刊当時のゼクシィの事業規模は数10億円程度だと想定していたらしい。この数字がどこから出てきたのかは知らないのだが、いずれにしても人材領域や不動産領域と比較すれば、それほど大きなビジネスになるとは想定されていなかったということだ。
しかし峯岸は、その想定を超えてゼクシィが数百億円規模のビジネスになる道筋を示すことに成功した。それは一言でいえばゼクシィという「場の中での」競争を促進させたことによるものだった。

2000年代のリクルートではビジネスを考える時に、”オープン・マーケット”と”クローズド・マーケット”という単語を使ってまず市場を切り分けていた。オープン・マーケットというのは、市場に存在するクライアントは事実上無制限であり、営業努力によって常に新規顧客を開拓できるようなマーケットを指す。数100万社を対象とすることが可能な中途人材マーケットが代表的な例だ(※1)
一方ではクローズド・マーケットというのは、顧客の数が有限であり、かつ顧客側でも競合をある程度定義することが可能なマーケットを指す。不動産広告市場やブライダル市場が代表的な例となるだろう。

例えばブライダルにおいて最も市場規模が大きい「箱(結婚式場)」は数が有限であり、かつ地域内である程度競合関係が明確になっている。実家がそれぞれの地域に分かれているという例を除けば、一般的なカスタマーは「東京と大阪の式場を比較する」ということは行わない。カスタマーの選択肢はある程度初期段階から絞られているし、そのニーズの中でクライアント側は競争を行う。

峯岸はこのクローズド・マーケットではクライアントが相互に競争関係にあることに注目し、その広告やマーケティング観点での競争をゼクシィ上で活性化するという戦略をとった。ゼクシィがカスタマーのかなりの数をカバーできるようになれば、ゼクシィという「場」の中で目立つ、あるいは魅力的であるということが直接集客数を左右するのだ。これは言い換えれば、クライアントの全マーケティング予算の中でゼクシィのシェアを増やしていくということを戦略的に進めたということになる。


高い障壁となる紙掲載の広告費

今でもリクルートは十分な高収益企業だが、そのビジネスが情報誌=紙での情報提供であった時代には、今よりもはるかに高い利益率を誇っていた。自分は紙からネットへとリクルートの運営するメディアが変わっていく事態に所属をしていたのだが、当時はネットに早めに対応をする一方で、いかにネットへの移行を遅らせるかというのが重要な経営課題になっていた。ネットと違って紙は物理的に「場所」を押せる必要があり、既存のビッグプレイヤーに圧倒的に有利なマーケットだったからだ。

そして一度カスタマー側をおさえてしまえば、広告費をたとえ高くしたとしてもクライアント側はついてくる。何せその場所に参画しないことには、カスタマーに情報を提供することすらできないのだ。リクルートもその立場を最大限活用し、ゼクシィの掲載費は非常に高かった(流石に当時の金額を開示することはしないが、結婚するカップルがその掲載費を聞くと驚くこと間違いなしだ)。言い換えると、リクルートはクライアントの数を増やしつつも、同時に掲載費という高い障壁を作ってゼクシィへの参入数をコントロールしていたのだ。

このようなビジネスモデルをプラットフォームと呼ぶことも決して不可能ではないが、少なくともWikipediaに掲載されている類型からはやや遠いと言わざるを得ない。仮にゼクシィがプラットフォーム型へと変わっていったのであれば、それは編集側やビジネス側の意志というよりも、情報のメインの収集方法がインターネットに変わっていったということに対する適応であり、決してゼクシィが積極的に進めたわけではないと言えるだろう。本書でも述べられているように、紙の時代ほどにはゼクシィは圧倒的なカスタマー占有率を持っているわけではないからだ。

 

プラットフォームという単語は中国語では平台(ピンタイ)という。そしてこの単語は、日本語で使われるよりもはるかに多様な意味で使われている。例えば国際会議などでの個別会談の設定なども、中国語では「会議という平台を利用して・・」みたいに報道されることがある。自分は本書を読んでいて、著者はプラットフォームという単語をビジネスにおける一般的な利用法ではなく、この中国語での使い方を援用して使っているのではないかと感じた。

さらに言えば、プラットフォーム型ビジネスというのは現代の高収益企業の多くが採用しているビジネスモデルであり、ビジネスモデルの進歩の「先の方」にあるというイメージがある。著者がゼクシィの変化の先にプラットフォーム型ビジネスへの志向があった・・と想定するのは、”ビジネスモデルの進歩史観”ともいうべき前提が暗黙の上に置かれていたのではないだろうか。
すでに書いたように、リクルートという企業はあくまで営利企業として情報誌・マッチングメディアビジネスを展開している。そして意思決定においては、思想的な方向性ではなく、営利性(最近では社会性)が優先して考慮されるのだということは改めて指摘しておきたい。

 

 

※1・・・ここでいう「事実上無制限」というのは、ビジネス拡大のボトルネックが提供側・営業側にあるということを意味しており、本当に無限に顧客が増えるわけではない。

2023年7月12日 (水)

大衆皆喜に関わった人間による”『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム”の感想(3/5) : 情報誌としての視点

(その1その2から続きます)

ゼクシィという媒体のメディア的な変遷を辿る「ゼクシィのメディア史」は、雑誌という視点からその記事や雑誌の姿勢について考察を行っていた。しかしゼクシィは通常の”雑誌”とは異なり、リクルート社の発行する”情報誌"である。そこには、雑誌とは異なり「広告そのものがコンテンツである」という考え方が根底にあるということを指摘したいと思う。


読者(カスタマー)が見たい情報とは

今のようにネットビジネスが中心な時代ではおそらく実施されていないと思うが、昔のリクルートでは入社すると「リクルートが取り扱っている情報誌」と「雑誌」の違いは何か・・ということを、必ず研修で習っていた。一言で言えば、後者は「情報を見たい人が手に取り、広告を見せる」というビジネスであり、前者は「広告こそが読者に見せたい/見せるべき情報」だと学ぶ。

江副氏が立ち上げた創業ビジネスである「企業への招待」は、新卒学生に対して求人広告のみを一冊にまとめて届けるというビジネスモデルだった。彼は東京大学在学中に経験した、大学新聞の営業として求人広告を取ってくるという成功体験から、求人情報のみを一冊にまとめる本には読者(カスタマー)側にも、企業側(クライアント)側にもニーズが存在すると感じていたのだった。そしてその企業への招待には、編集記事と呼ばれるような情報はなかった。

時代と共に情報誌ビジネスも進化していき、いわゆる雑誌のような形を持ったビジネスもリクルートは展開していくようになる。しかしそれでも、リクルートのDNAに近いところで、自分達が作っているものは「情報誌である」という感覚は残っていた。カスタマーがリクルートの情報誌に求めるもののうち、広告コンテンツそのものは大きな比重を占めているということだ。
これは言い換えると、編集側は広告コンテンツをどのように見せるのか・・ということに対して、大きな責任とこだわりを持っていたということを意味する。

 

台割こそがリクルート編集の腕の見せ所

一般的な雑誌では台割というと「雑誌一冊の中でどのようにコンテンツを配置していくかを示した設計図」という意味になる。そしてこれがリクルートの情報誌になると、上記の意味に加えて「広告コンテンツをどのように整理して、カスタマーに届けやすくするか」という意味が付け加えられる(※1)

インターネットによるメディアや検索が当たり前になる前、あるいはWEB上でのマッチングメディアが当たり前になった現在においても、情報を短時間で大量に読むことを目的とした場合には情報誌や雑誌の方に優位性がある。一方で、物理的に印刷を行わないといけない紙メディアでは、複数の検索軸に対してクライアントの広告を提示するということが出来ない。そのため、読者に提示する検索軸あるいはカテゴリーは情報を届ける上で非常に重要な要素となる。

ゼクシィのように広告コンテンツが膨大な情報誌では、それだけ一つの広告がカスタマーの目に留まる可能性が低くなる。特にページの前の方に配置されるような大型ページ(1ページや見開きページ、あるいはそれ以上のページ数)を購入することが出来ないクライアントに効果を返す == カスタマーからの問い合わせや資料請求を増やすためには、カスタマーの興味関心に合わせた適切な検索軸を設定することが欠かせない。

ここで重要なのは情報誌が設定する検索軸は、単純に商品カテゴリなどの明らかな可能なものだけではなく、カスタマーの興味関心に合わせたものも設定されているということだ。カスタマーのさまざまな方向性を持つ興味関心のうち、どの軸をピックアップし、どのように配置するかという、いわば「広告コンテンツの編集」は単なる情報整理以上の意味を持つのである。言い換えれば、そこには時代時代の編集側の意図が必ず込められていたと言えよう。

 

クライアントとカスタマーの相互作用

その前提を置いた上でさらに重要なのは、特集や検索軸の設定ではクライアント(広告提供側)とカスタマーの相互作用が働いていたということだ。結婚に関する世の中のトレンドや流れは、必ずしも結婚やブライダルと呼ばれる領域だけで作られるものではない。すでにその2で書いてきたように「時代の空気」というものは確かに存在するし、カスタマーはその空気に合わせて少しずつ情報を吸収するためのフィルターの透過度を変化させてくる。

広告を出すクライアントは当然ながらその変化に敏感であり、商品や提供サービスを変化させてくる。仮にこの変化を「カスタマー主導の変化」と呼ぶとしよう。しかし情報誌ビジネスにおいては、時に競合との差別化や新規カテゴリー創出に積極的なクライアントが、新たな検索軸や考え方、カテゴリーを提案してくることがある。彼らから見るとそれは自社のマーケティングや事業戦略上の変化なのだが、情報誌上の広告コンテンツにおいては新たなトレンドが提案されていることになる。こちらの変化は「クライアント主導の変化」と呼ぶこととしよう。

リクルートの情報誌の編集は、このカスタマー主導の変化とクライアント主導の変化をうまく相互作用させることで、情報誌を通じてのマッチングをより活性化させるだけではなくマーケットそのものを成長させてきた。もちろん、クライアント主導の変化は編集が主導する場合もあるし、担当営業が主導する場合もある。

いずれにしても、情報誌の編集においては時にカスタマー側のニーズ以上にクライアント側のニーズを重要視する場面があるということだ。もちろんカスタマー側のニーズに合わなかったものは、一定の期間を経て淘汰をされていく運命にある。そもそもクライアントも広告効果を向上させることを狙っているのだから、新たな取り組みがうまくいかなかった場合には戦略を変更するのは妥当な行為だ。ただしその第一歩となる取り組みを世の中に提示できるかどうかは、編集側のサポートが必要になる。


以上のことから、情報誌における出版側(ゼクシィの場合はリクルート)の意図や姿勢をより正確に分析しようと思うのであれば、記事だけではなく広告コンテンツの分析を行うことも求められるのだ。「ゼクシィのメディア史」はこの点においては、広告コンテンツに関する言及がほぼなく、実際に情報誌を作っていた部門に所属していた自分には片手落ちに感じられたのだった。

 

※1・・・私が在籍していた時のリクルートは事業部制を採用しており、事業部ごとに言葉の使い方がかなり違っていたので、部門によっては広告コンテンツの整理軸を、台割という言葉を使わずに表現していた可能性はある。

2023年6月20日 (火)

大衆皆喜に関わった人間による”『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム”の感想(2/5) : 編集としての視点

その1から続きます)

ゼクシィという媒体のメディア的な変遷を辿る「ゼクシィのメディア史」は、雑誌という視点からその記事や雑誌の姿勢について考察を行っていた。しかしゼクシィは通常の”雑誌”とは異なり、リクルート社の発行する”情報誌"である。そこには、雑誌とは異なる視点での特集や編集記事の設計が行われていたことを指摘したいと思う。


読者を動かす仕掛けとしての編集

リクルートが発行する情報誌というのは、最終的にその広告記事を通じて、読者(リクルート用語ではカスタマーと呼んでいた)が広告出稿元(同じくクライアントと呼ぶ)への応募や資料請求などのアクションを促すことを目的に発行されている。言い換えれば、どれほどコンテンツとして面白くてユーザーの支持率が高かったとしても、ユーザーがアクションを起こしてくれなければ、商品としては失敗なのだ。

この考え方は一般的にリボン図という概念で整理がなされている。リボンの両端にいるのがカスタマーとクライアントで、リクルートはその提供する場でマッチングを起こすというのが、その図の示すところだ。この図自体は本書の中でも言及がなされており、著者も認識はしていたはずだ。しかし、残念ながらこのリボン図という概念が編集記事やコンテンツ制作にどのような影響を与えたかについては、ほぼ言及がない。

 

著者も指摘しているように、元々ゼクシィは閉鎖的だったブライダルマーケットにおいて情報を直接提供することで、カスタマーの選択肢を最大化させるということを創刊時の目的の一つとしている。この目的自体はリクルートの情報誌の中では決して珍しいことではなく、情報の非対称性をメディアを用いて是正するというのはリクルートの事業領域を決定する際の一つの基準となっていた(採用領域や住宅領域が代表的な例だ)。

情報誌のコンセプト自体が上記のように定められている以上、掲載されるコンテンツや記事が、カスタマーの強い行動変容を促すものになっていくのは当たり前だ。また実際に中にいた感覚からするとゼクシィはリクルートの中でも、かなり思想性の強いビジネスだった。それぞれのビジネスごと単にビジネスの増加以上に何らかの価値を世の中に提供したいという気持ちはあったが、ゼクシィは”ハッピーな結婚”に対して思い入れの強い人間が多い部署だったという記憶がある。

 

時代のちょっとだけ先をいく切り口の提供

ただし繰り返しになるが、リクルートの情報誌はカスタマーが”動いてくれてなんぼ”のビジネスである。あまりに強い思想性や読者層の仮定による編集方向性の設定は、その”動かす力”を弱めてしまうことになる。実際に自分が在籍している短い期間の間にも、編集長(リクルートにおいてはメディア側の事業責任者という意味合いになる)の提供したい方向性がマーケットとずれており、あっという間にビジネスが低迷してしまったメディアを見たことがある。

そういったビジネス上のプレッシャーを抱えている編集側は結果として、まさに本書の中でも言及されているように「時代の少し先をいく」編集記事やコンテンツを提供している。言い換えると、情報誌のコンテンツは決して時代の雰囲気(あるいは競合などが作る記事やコンテンツ)とは無縁ではなく、追いつ追われつの関係にあったといえるだろう。そこには確かに編集側の意思が存在していたが、それは「ビジネスがうまく回るという前提」を置いた上での意志であり、世の中に”自分が感じる”新しい価値観を提供するというメディアが時にとるような意思決定はリクルートではなされないことが多かった。

 

また本書でも触れられているように、ゼクシィという情報誌は結婚情報が必要なある時期に集中して購入される傾向が強い。本書では4冊(4ヶ月)で記事が一周するようにとあったが、編集記事の台割設定は年間単位で何回か回るようにある程度決定されていることが普通だった(※1)。通常の編集記事は「定番記事」「季節の記事」「ちょっと攻めた記事」のような形で分けられており、それぞれの台割の中で具体的な内容を決定していくのだ。

そしてこの編集コンテンツにはもう一つ、情報誌ならではの「クライアント側要望に合わせた編集コンテンツ」という枠が存在する。

 

広告側ニーズに基づく編集記事

「時代の少し先をいく」情報というのは、決して明確に目に見えるわけではない。そういったセンスのある人間にはなんとなく匂いのようなものがわかるのだろうけど、少なくともSNSやその他のメディアで”これが時代の少し先をいく情報ですよ”とラベルが貼ってあるわけではないのだ。もしそういうラベルが貼ってある情報があったとしたら、それは「時代と同じスピードで消費されている」情報か、「誰かが先だと宣言したい」情報のどちらかでしかない。

しかし情報誌を扱っているリクルートには、その兆しを掴むための方法がいくつもある。一つはもちろん読者 = カスタマー側の反応。そしてもう一つが広告コンテンツを提供するクライアント側からの情報だ。
情報誌に掲載されているクライアントは色々だから、定型情報を載せ続けたり、あるいはリクルート側(制作スタッフやカメラマン)の提案だけに頼るクライアントも存在する。しかし彼らもビジネスである以上、常に顧客(この場合はブライダル情報を求めている読者)のニーズをつかみたいと思っているし、時には新しい企画や取り組みを行っている。

 

情報誌を発行しているリクルートは時に、そういった顧客の取り組みを応援するような企画を組むことがある。これはいわゆる有料PR記事とは異なり、あくまで企画判断は編集側によって行われている。そして、そういった特集を組むことでより多くのクライアントが掲載やサイズUPを考えてくれるのであれば、編集側も積極的に企画を行なっていくこともある。

言い換えると特集や編集記事というのは、読者 = カスタマーに情報を提供するための切り口であるというだけではなく、情報誌ビジネスを経営しているリクルートにとって売り上げUPのチャンスにもなりうるということだ。もちろん編集側はカスタマーにとってマイナスとなるような企画を組むことはないだろう。しかし、編集コンテンツは売上というファクターによっても決定が左右されるし、それは時にはクライアント側が生み出そうとしているトレンドや流れを追いかけるものでもあったということは、意識しておいた方が良いだろう。

 

※1 ・・・自分のリクルート時代の上司は「彼女がゼクシィを買い続けて家の中で塔のようになり、これ以上買うと崩れてきて危ない」と感じたので結婚したという人だったので、彼氏にプレッシャーをかけるために買い続けるという人もいたかもしれない。

2023年6月13日 (火)

大衆皆喜に関わった人間による”『ゼクシィ』のメディア史: 花嫁たちのプラットフォーム”の感想(1/5)

タイトルを何度か変えて15年近く続けているこのblogの最初の投稿は2007年11月になっている。自分がリクルートの社員として上海に駐在し、ネット版の大衆皆喜を作っている時だ。自分は2008年末にはリクルートを退社してしまったので、その後の大衆皆喜には関わっていないが、人生の中で最も仕事をしたと言っていいネット版の開発は、自分にとって特別な思い出だ(いい意味でも悪い意味でも)。

その大衆皆喜を含んだであるゼクシィの創刊から現在までを、”メディア”という観点から研究したのが本書だ。本書の存在はTwitterで偶然見つけたのだが、大衆皆喜に関する研究など滅多にあるものではないので、自分が読まなければ誰が読むのだ・・という気持ちで手に取ってみた。自分はいわゆる「中の人」なので、読んでいる中で感心する部分もあれば、ちょっと違うなという部分もある。せっかくなので、複数回に分けて感想を残しておこうと思う。


読み物としての面白さとビジネス視点の欠如

自分は工学系の卒業であるし、その後はずっとビジネスの現場にいる人間なので、いわゆるメディア・スタディというのは完全に門外漢の人間だ。その自分にとっての本書の最初の感想は、とにかく読みやすく知的興奮に溢れているということだった。博士論文を元に出版された・・と後書きにはあるので元は論文形式のはずだが、商業出版物として読んでも全く違和感がない。これは著者の前職が記者だったということもあるかもしれないし、あるいは編集の方が優秀だったのかもしれない。いずれにしても研究書を読むなんて敷居が高い、と思う人がいたら、恐れずに手に取ってほしい。

またリクルートという極めて利益率の高い企業が出す情報誌を外から見るとこのように見えるのか・・といった視点を知ることができたのも素直に面白かった。特にゼクシィが最初から結婚情報誌として作られたわけではなく、広く恋愛領域をカバーしたものだというのは、知識としては知っていたが本書を読むまでは全く実感を持っていなかった。
本書にある通り今では結婚のバイブルにまでなったゼクシィが最初はXY染色体から取られた名前だなんて、ほとんどの人が知らないだろう。来歴が知られなくなっても固有名詞として残り続けるというのは、仕事としてはとても誇らしいことだと思う。

 

一方で本書はゼクシィという収益を生むための"情報誌"をあくまで、雑誌という観点から取り上げているため、リクルートにいた人間からするとビジネス視点の欠如というのは大きな違和感を感じる部分だった。”情報誌”と”雑誌”の違う点は色々とあるが、一番の違いはそのビジネスモデルにある。

一般的な雑誌というのは、メディア上にあるコンテンツに興味を持った読者(あるいはユーザー)に対して広告をつけることでビジネスが成立している。この広告というのはユーザーが興味関心を持つようなものである必要があるが、必ずしも特定の領域に閉じる必要はない。
一方でリクルートの発行している情報誌は、”広告そのものが主要なコンテンツ”である。コンテンツ+広告、ではなくコンテンツ = 広告なのだ。ここに雑誌と情報誌のビジネスモデル、そして利益率の大きな違いがある。

本書は繰り返すが「メディアとしてのゼクシィ」を対象としているため、このようなビジネス領域にまでカバー範囲を広げてしまうと焦点がぶれてしまうという懸念があったのはよくわかる。なので、自分もビジネス視点がないことが本書の”欠点”であるとは思わない。これから数回に分けて書く感想は、本書の素晴らしい研究成果に対して、ビジネス的な視点を補完するためのものだと思ってもらえると嬉しい。

感想としては以下の内容をざっとまとめて書いていこうと思う。

- 編集としての視点: 読者を動かすための仕掛けづくり
- 情報誌としての視点: 広告こそがコンテンツ
- 発行者側の視点: マッチングの場としての情報誌
- ビジネスとしての視点: 大衆皆喜のビジネス的な失敗点

 

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